初期のサルタイアー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 16:40 UTC 版)
「聖パトリック旗」の記事における「初期のサルタイアー」の解説
多くの資料をもって、サルタイアーは1783年以前のアイルランドで使用されていたとされている。 1480年ごろに鋳造された複数のアイルランドのコイン (en) (グロートおよび半グロート) の裏面のデザインには、サルタイアーがついた盾が2つ描かれていた。当時、アイルランド総督にはキルデア伯ジェラルド・フィッツジェラルドが就いており、この盾2つは彼の紋章であると見られている。 1601年から1602年のキンセール包囲戦 (en) の時の英語、およびドイツ語の絵地図においては、アイルランド・スペイン連合軍は赤いサルタイアーで表されていた。ただしこれは、アイルランドの旗というよりも、スペインの戦旗であったブルゴーニュ十字であると考えられている。 1612年からの物であるとはっきりしているダブリンのトリニティー・カレッジ (en) の紋章には、2つの城塔に翻っている旗が見られる。ひとつは白地に赤十字のもので、これは聖ジョージ十字を現しているとされる。もうひとつは白地に赤いサルタイアーで、こちらはアイルランドを表していると考えられている。 三王国戦争間のアイルランド・カトリック同盟の紋章に関する近年のレポートでは、おのおのにおいて金地に赤サルタイアーの入った小区画を持っていたことが報告されている。1645年のダンカノン包囲戦 (Siege of Duncannon) のある絵地図においては、トマス・プレストン (Thomas Preston, 1st Viscount Tara) の連合軍はサルタイアーで示されていた。 1915年の旗に関する本では、1650年代護国卿時代の短い期間に、盾を4分したうち最初と4つ目に聖ジョージ十字が、聖アンドリュー十字が2番目に、そしてアイルランドを表現した白地に赤サルタイアーが3番目に置かれた旗を使っていたと主張する。ユニオンフラッグを描いたいくつかの図画 (その中には大ウィレム (Willem van de Velde the Elder) が1661年頃に描いたヘンリー (HMS Henry (1656)) も含まれている) には、1800年以降のユニオンフラッグのように赤サルタイアーを含むものも見られる。しかし、そのようなデザインを使っていたという公的な証拠は無い。 17世紀後半から18世紀におけるいくつかの地図と旗の本においては、白地に赤サルタイアーの旗はアイルランドを表すものとして使われていた。それらのなかには、パウルス・ファン・デア・デュッセン (Paulus van der Dussen) の1690年ごろのものや、Le Neptune françoisのものも含まれており、1693年にアムステルダムで刊行された海図においては、その上部にはIerse、下部にはIrlandoisと解説されていた (前者はドイツ語、後者はフランス語で「アイリッシュ」)。ジャン・ブラウ (Jan Blaeu) の1650年の地図では、白地のサルタイアーでアイルランドを表しており、いくつかの版ではハンドカラーリング (Hand-colouring) によって赤が入っていた。
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