初期: 上海を中心として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 21:16 UTC 版)
「中国映画」の記事における「初期: 上海を中心として」の解説
映画は1896年に中国へ持ち込まれた。中国で最初となった映画は、1896年8月11日上海で上映されたバラエティ映画"act"だった(日本よりも3か月早い、「最初の映画上映」であった)。最初の中国の映画作品は、1905年11月に制作された京劇の演目『定軍山』を記録したドキュメンタリー作品であった。 1920年代には、上海でアメリカ合衆国の映画技術者により中国の映画技術者が育成され、これにより今後20年に亘ってアメリカの影響が見受けられる。1927年には中国全土で107の映画館を数えたが、上海にはそのうち26館が集中しており、観客席の数は68000席に達していた。1922年には、その後中国最大の映画会社に成長する明星影片公司が設立されている。1928年から31年までを例にとると、中国国内では約400本の映画が制作されていた。ただし、その過半に当たる250本は、カンフーなどの武芸ものであったといわれ、国産映画よりもハリウッドから輸入されたアメリカ映画のほうが人気が高いという状態が続いていた。 真の意味で重要なものとなる最初の中国映画は、1930年代に入っての『春蚕』(程歩高監督、1933年)、『大いなる路(大路)』(孫瑜監督、1935年)、『女神(神女)』(呉永剛監督、1934年)などに代表される「革新的」あるいは「左翼的」な映画である。この時期は、中国共産党と中国国民党が大手映画スタジオの支配を通じて勢力争いを繰り広げており、その影響は制作された映画の中に見ることができる。1930年以降は、中国映画のはじめの「黄金期」と呼ばれる優秀な(主に左派の)監督たちが活躍した時期である。1930年代初期から中期にかけて、聯華影業公司(en:Lianhua Film Company)と、より歴史が古く大きい明星影片公司の2つの映画会社が市場を支配した。この時期には、蝴蝶、阮玲玉、周璇、金焔などの大物映画俳優を輩出した時期でもある。同時期の映画作品としては、『漁光曲』(1934年)、『十字路(十字街頭)』(1937年)、『街角の天使(馬路天使)』(1937年)などが挙げられる。 聯華影業公司の経営者は羅明佑で、外相など歴任した羅文幹の甥であった。孫瑜(1900~90年。主な作品に「大いなる路」、1950年には「武訓伝」など)、蔡楚生(1906~68年。主な作品に「新女性」、「漁光曲」、「春の河東へ流る」など)をはじめ戦後まで活躍する名監督たちを抱え、一世を風靡した女優阮玲玉(「新女性」主演、1935年3月8日、スキャンダル報道に抗議して自殺)らも連華の所属であった。 日中戦争による日本の中国侵略、特に上海の占領によって、この中国映画の黄金期は終焉を迎えた。新華影業公司を除く映画会社は閉鎖され、多くの映画制作者は上海から国民党が支配していた重慶や香港へと去っていったのである。
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