出版、文通、科学的論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:56 UTC 版)
「ティコ・ブラーエ」の記事における「出版、文通、科学的論争」の解説
1588年、ティコの支持者であったフレゼリク2世が死亡し、またティコの偉大な研究成果、2巻本の『Astronomiae Instauratae Progymnasmata(Introduction to the New Astronomy)』が出版された。ただし1572年の新星について記した第1巻は準備がまだできていなかった。これは、1572年から1573年にかけて観測機会が減少していたので、屈折、歳差運動、太陽の動きなどの影響を補正するためにより多くの研究が必要であったためである。これはティコの存命中には完成しなかった(1602年/1603年にプラハで出版された)が、1577年の彗星を取り扱った第2巻の「De Mundi Aetherei Recentioribus Phaenomenis Liber Secundus(第2巻 天界における最近の現象について)」はウラニボリで印刷され、複数のコピーが1588年に発行された。この本には1577年の彗星の観測に加えて、ティコが考案した宇宙体系について記されていた。1580年以降の彗星を同様の手法で取り扱った第3巻も企画されたが、1585年の彗星について多くの観測結果がまとめられたものの、それが出版されることはなく、書かれることもなかった。これらはこの彗星の観測結果と共に1845年に初めて出版された。 ウラニボリにおいて、ティコ・ブラーエはヨーロッパ中の科学者や天文学者との文通を継続していた。彼は他の天文学者の観測結果を問い、また彼らがより正確な観測を行えるように自身の技術進歩を共有した。故に彼が持っていた交流関係は彼自身の研究にとって重要であった。こうした文通はしばしば、学者たちとのプライベートな関係のみではなく、観測結果を広める手段であり、進歩と科学的合意を築くためのものであった。文通を通じて、ティコ・ブラーエは彼の理論に対する批判者たちといくつかの個人的な紛争に関与した。批判者たちの中で著名な人物にはアリストテレス的世界観の権威を強く信奉するスコットランド人の医師ジョン・クレイグ(英語版)、プラハの宮廷に仕える天文学者でウルシス(Ursus)の別名で知られるニコラウス・ライマース・ベア(英語版)がいた。ニコラウス・ライマースはティコが彼の宇宙論モデルを剽窃したと非難した。クレイグは1577年の彗星が地球の大気圏中ではなく、天球の中の現象であるというティコの結論を受け入れることを拒否した。クレイグはティコの方法論に疑問を呈し、自身の彗星観測結果を使用してその矛盾を突こうと試みた。これに対しティコ・ブラーエは自身の結論の『apologia』(弁護)と題する出版を行い、その中で追加的な議論を行うとともに、クレイグの考えの無能を主張する強い言葉で非難した。別の議論は数学者ポール・ウィチシュ(英語版)とのものであった。彼は1580年にヴェン島に滞在した後、カッセルのヴィルヘルム4世と彼のお抱えの天文学者クリストフ・ロスマン(英語版)に、ティコの観測器具のコピーの作り方を、ティコの許可を得ることなく教えた。次いで、ウィチシュと共に学んだクレイグは、ティコが使用しているいくつかの三角法の理論の開発に対するウィチシュの役割を、ティコが不当に過小評価していると非難した。ティコ・ブラーエはこれらの紛争を処理するにあたり、出版および議論と自身の回答を広く普及させることで、科学コミュニティの支持を確実なものとした。
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