出版・文芸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
李朝時代から欧米や日本の近代文芸作品が読まれるようになった。日清戦争後に朝鮮から日本に来た留学生は、ヨーロッパ文学を日本語に翻訳しており、多数の作品が和訳からの重訳で紹介された。やがて翻訳や翻案に続いて独自の作品を書く作家が現れて、在日朝鮮人文学が開拓されていった。朝鮮語と日本語の双方で作品を発表する作家も登場し、金史良は「光の中に」で芥川賞候補となり、李箱は難解さで物議をかもす小説や詩を発表した。ほかに九人会に参加して純文芸を追求した詩人の鄭芝溶、近代化を志向して『無明』で朝鮮藝術賞を受賞した小説家の李光洙らがいる。朝鮮初の文芸同人誌とされる『創造』は、東京で発行された。朝鮮農民の離農や流浪が急増した1930年代に活動した姜敬愛は、植民地政策を告発する『人間問題』や『塩』、日本人と朝鮮人の友情を描いた日本語作品『長山串』を書いた。独立から韓国建国までの過渡期には、張徳祚が日本統治時代末期を舞台に『喊声』を書いた。これは、娘が女子挺身隊で内地へ送られようとする母親の抵抗が主題となっている。 甲午農民戦争後に抗日運動をした活貧党は、許筠が17世紀に書いたハングル小説『洪吉童伝』の義侠洪吉童をモデルとした。日露戦争時の日韓議定書によって、日本軍に不利益となる集会・結社・言論活動は死刑以下に処すると布告して制限された。独立協会が発行した独立新聞は、ハングルのみで書かれた初の新聞となったが発行禁止となった。独立協会の路線を引き継いだ愛国啓蒙運動は、アーネスト・ベセルが社長となった大韓毎日申報や皇城新聞などの新聞を発行して言論活動を行った。日本は韓国政府のもとで新聞紙法を定めて、愛国啓蒙運動の言論を規制した。日本統治時代の朝鮮で娯楽用に広く読まれた本としては、タクチ本がある。在日朝鮮人社会の新聞としては、大阪の猪飼野で発行された民衆時報や、東京で発行された朝鮮新聞などがあった。
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