在日朝鮮人社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
最初の朝鮮町は、現在は大阪市の生野区内の地域が1909年に記録として残っている。日本人の家主が朝鮮人への賃貸を避けようとしたため、当初は海抜ゼロメートル地帯や工場付近など日本人の少ない場所で定住が進んだ。朝鮮半島での不況と農民層の解体、そして内地の労働需要によって、内地へ渡航する者や出稼ぎで往来する者が急増した。特に第一次世界大戦後には日本の労働需要が高まり、内地の大学に留学する者もいて、在日朝鮮人は1915年の約4000人から1920年には3万人、1923年には9万人と急増して、1920年代に在日朝鮮人社会が形成された。日本人との朝鮮観をめぐる争いも起き、東京府立第一中学の校長を批判して退学処分となった者の中には、三・一独立宣言に署名した崔麟もいた。朝鮮人への蔑視は日本人側からも問題視されて、駐韓日本大使の林権助が日本人への訓令を発する事態となった。 朝鮮人は安価な賃金で働き、日本の労働者からは就業機会を奪うとして反発を招いた。また、朝鮮半島の民族運動が内地では不逞行為として報道されて悪印象につながり、これらが原因となって関東大震災では朝鮮人虐殺事件が起きた。震災後の9月1日午後には、警察や軍隊は朝鮮人に関する流言を是認して、朝鮮人の殺傷を行った。警察は9月3日に流言の打ち消しをしたが、軍隊や民間の自警団は殺傷をやめず、多数の朝鮮人、中国人、そして誤認された日本人が犠牲となった。日本政府は自警団のみの責任を追及して検挙して、個々の犠牲者についての公的な調査は行われなかった。官庁記録による犠牲者数は578人、朝鮮総督府の官憲調査による犠牲者数は813人にのぼった。 1920年代には家族での定住が増えていき、1930年の国勢調査では40万人のうち3万人が内地出身の二世となった。1940年に予定されていた東京オリンピックの際には、東京の深川や塩崎に在日朝鮮人が集められた。日本政府が植民地政策の結果である朝鮮人を海外の目から遠ざける目的で、朝鮮総督府の費用で埋立地の上に長屋が建設された。
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