公開と批評
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絵画がアトリエから万博会場に搬入された日付は不明だが、1937年6月末にはスペイン館に絵画が運ばれ、入口から見て右手の壁面全体に絵画が掛けられた。なお、スペイン館の3階には破壊されたゲルニカの写真が展示され、またフランス人詩人のポール・エリュアールによる『ゲルニカの勝利』という詩が掲げられた。写実的な絵画を期待していた関係者の中には、より目立たない位置に移すことを計画した人々もいたが、ピカソの名声を考慮して万博閉幕まで入口ホールに掲げられた。7月12日にはスペイン館の完成披露宴でこの絵画が公開された。前衛芸術家や一部の知識人を除けば絵画の評判はいま一つであり、「深刻化するスペインの危機を視覚的に表現していない」「ナチスの酷い犯罪の真相をだれにでもすぐにわかるように描いていない」などの批判が聞かれ、新聞などで絵画が取り上げられることはなかった。スペイン館の開館がパリ万博自体の開会より遅れたこともあって、公式パンフレットにこの絵画が記載されることもなかった。しかし、スペイン人美術評論家のジャン・カスーはとてもスペイン的な絵画であると評価し、スペイン人詩人のホセ・ベルガミンは祖国の本質を反映して体現していると評価した。クリスチャン・ゼルヴォスは『カイエ・ダール』誌の丸々一冊をこの絵画の特集に当て、ドラの記録写真とともに取り上げた。 万博閉幕後の12月にはフランス人建築家のル・コルビュジエが「ピカソの壁画は醜いばかりで、観る者の心を萎えさせる」と、政治的な理由ではなく美学的な理由で絵画を批判した。閉幕後には展示品の大半が海路でバレンシアに送られたが、共和国政府は反乱軍の攻撃に対する対応で手一杯であり、ジョアン・ミロの絵画、アルベルト・サンチェス・ペレスの彫刻など、積み荷となった美術品の多くが紛失した。共和国政府の所有物であるはずのこの絵画はなぜかスペインに送られることはなく、アレクサンダー・カルダーやジュリオ・ゴンザレスなどパリ在住の他の芸術家の作品同様に、パリにあるピカソのアトリエに送り返された。1938年1月にはスカンディナビア半島で開催された四人展に絵画を出展したが、ここでは称賛の対象にも侮蔑の対象にもならなかった。1938年10月にはロンドンの展覧会に出展し、収益をスペイン共和国政府に送金した。美術評論家のロジャー・ヒンクスはピカソが絵画に知的遊戯や当世風ガラクタを持ち込んだと異議を唱え、美術史家のアンソニー・ブラントはピカソがスペイン内戦の複雑な真相を理解できていないと批判した。スティーヴン・スペンダーや美術批評家のハーバート・リードは批判者に反論し、スペンダーはこの絵画が「傑作かもしれない」と指摘した初の人物である。この頃には共和国軍の敗戦が濃厚となっており、年を越した1939年3月31日にはフランコ独裁政権が誕生した。
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公開と批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/23 02:56 UTC 版)
第65回ベルリン国際映画祭のオープニング作品である。ベルリン国際映画祭での上映時のタイトルはNobody wants the Nightだったが、このタイトルでは売れないと判断した上層部の意向でEndless Nightに改題された。本作品に対する映画評論家の反応は辛辣であり、ガーディアン紙には5点中2点を付けられてしまった。コイシェの母国スペインでの反応はまずまずといったところであり、エル・ムンド紙は4点中3店を付けた。
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