公開に至った経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 06:36 UTC 版)
吉田昌郎元所長に対する聴取の応答内容をまとめた「聴取結果書」(後の、いわゆる「吉田調書」)は当初、本人の上申書に基づいて非公開とされていた。 国会事故調が内部で調査のために用いる限りにおいて承諾するものであり、本件資料が、国会事故調から第三者に向けて公表されることは望みません。(平成24年5月29日付け上申書より引用) しかし、吉田昌郎元所長が2013年(平成25年)7月に死去した翌年の2014年(平成26年)5月に、朝日新聞は非公式に入手した吉田昌郎元所長の「聴取結果書」の内容と称して「平成23年3月15日朝に福島第1原発にいた所員の9割に当たる約650人が吉田昌郎所長の待機命令に違反し、第2原発へ撤退した」などとするスクープを報じた。これを受け、ニューヨーク・タイムズなどの海外有力メディアは「パニックに陥った作業員が原発から逃走」などと批判的な論調で一斉に報じた。 朝日新聞の報道に対して、吉田元所長本人にインタビューしたジャーナリストの門田隆将は、朝日新聞の報じた内容に誤りがあると指摘するが、朝日新聞は「朝日新聞社の名誉と信用を著しく毀損」しているとして、記事を掲載した週刊ポストと門田に対し抗議し、訂正と謝罪が無い場合は法的措置を検討すると通告した。 同年8月には、他の報道機関も「吉田調書」を非公式に入手し、「命令違反し撤退」という朝日新聞のスクープ記事を真っ向から否定する報道を行った上(8月18日に産経新聞、8月24日にはNHK、8月30日には読売新聞など)、「吉田調書」の全面公開を求める訴訟が起こされるに至って、状況が一変する。 これらの動きを受けて、日本国政府は吉田昌郎元所長の聴取記録書を公開するよう方針転換し、2014年(平成26年)9月11日に内閣官房が吉田調書を含む「政府事故調査委員会ヒアリング記録」を正式に公開。このとき、吉田昌郎元所長の聴取記録書も、上申書で非公開を明確に希望していた本人の遺志に反して、正式公開された。同日夜、朝日新聞は木村伊量社長や杉浦信之取締役編集担当(いずれも当時)らによる記者会見を開き、記事を取り消したうえで謝罪した。 結局、当初朝日新聞が報じた首相・菅直人が「東電全面撤退」を阻止したというストーリーは、東電のプレスリリースや菅自身の国会答弁で否定されただけでなく、政府事故調及び国会事故調の報告書でも認められていない。 さらに公開された調書に記された吉田の証言によれば、首相官邸にいた武黒一郎からの「官邸はまだ海水注入を了解していないので、四の五の言わずにとめろ」との指示が出た際、吉田は現場に対しては「絶対に中止してはだめだ」と注入継続の指示を出す一方、本店には「中止した」との虚偽報告をしていたとされる。 また、吉田が当時の菅の様子を「何か知らないですけれども、えらい怒ってらした......要するに、おまえらは何をしているんだということ」「来て、座って帰られました」と語り、菅のことを「おっさん」「馬鹿野郎」と呼んでいることも確認され、吉田を「戦友」と見なしていた菅に対して吉田が強い不信感を持っていたことが浮き彫りになった。 一方、朝日新聞が「作業員が命令違反で福島第二に『撤退』」とした報道内容について、吉田は「本当は私、『2F(福島第二原発)に行け』と言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、『福島第二に行け』という指示をしたんです。私は、『福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回退避して次の指示を待て』と言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまったと言うんで、しょうがないなと」として、「線量の低いところに退避して指示を待て」という指示が作業員には十分伝達されておらず、「伝言ゲーム」が起きていたことを認めている。
※この「公開に至った経緯」の解説は、「吉田調書」の解説の一部です。
「公開に至った経緯」を含む「吉田調書」の記事については、「吉田調書」の概要を参照ください。
- 公開に至った経緯のページへのリンク