全日本選抜としてメジャーリーガーと対決
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「沢村栄治」の記事における「全日本選抜としてメジャーリーガーと対決」の解説
1934年11月に読売新聞社主催で日米野球が開催されることになり、メジャーリーグ選抜と対戦するための日本選抜チーム(正式名称は全日本代表野球チーム)が編成される。早稲田大学OBの三原脩・中島治康、法政大学OBの苅田久徳らかつて大学野球で活躍したメンバーが軒並み参加する中で、沢村はヴィクトル・スタルヒンとともに中等野球界からメンバーに選ばれる。日本選抜の編成を担当した読売新聞運動部長の市岡忠男(のちに大日本東京野球倶楽部専務取締役)は沢村の全日本選抜入りに際して、京都商業の校舎と隣り合う等持院の住職である栂道節の仲介を得て、京都商業の校長・辻本光楠と交渉するが、渡米経験のある辻本は沢村の全日本入りを快諾。市岡は沢村を指導していた腰本の了解も得て、沢村は支度金300円・月給120円で全日本入りが決まった。 なお、夏の甲子園大会終了後に沢村は京都商業を中退しているが(現在の高校3年生に相当する年齢)、その理由は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}野球部員による下級生への暴行事件が明るみに出て、連帯責任で甲子園出場が絶望的になったため[要出典]、あるいは、学生野球とプロ野球との対戦を禁じる野球統制令により、学生の身分では日米野球に参加できなかったためともされる。 選抜チームでは、法政大学OBの捕手・倉信雄が試しに沢村に3球全力投球させてみた際、低いと思ってミットを下に出すと、投球がホップして肩口の上を抜けていってしまい、全てパスボールしてしまう。さらに、最初のレギュラー・バッティングでは、二出川・苅田・水原・山下・中島・久慈・三原・井野川・伊達といった並み居る大学野球出身のスタープレーヤたちを9者連続三振に打ち取ったという。 大会では5試合に登板(4先発)する。11月10日の第5戦(神宮球場)では先発するも12安打を浴び0-10で敗れる。しかし、11月20日の草薙球場で開催された第9戦で再び先発すると、6回まで2安打7三振の無失点に抑える。7回裏にルー・ゲーリッグにソロ本塁打を浴び0対1で敗れるが、メジャーリーグ選抜チームに対して8回で9三振を奪い、5安打1失点と好投した。試合後、全米の監督であったコニー・マックから「沢村をアメリカによこせ。18歳の彼を2,3年みっちりとファームで仕込んだらきっとメジャーで使える」と賞賛された。さらにコニー・マックから渡米の打診も受けるが、沢村は「行ってみたいが、こわいわ」と語っていた。また、この試合に随行していたスチュアート・ベルという記者は、すぐにアメリカへ向けて沢村のすごさを書き送ったことから、アメリカ中で沢村の名前は「スクールボーイ・サワムラ」として尊称されるようになったという。もっとも、この試合でベーブ・ルースは、沢村を賞賛する一方で、「丁度バッターボックスに入って投手に面すると太陽の光源が真正面に見えるのでまぶしくて仕方がなかった」とコメントしている。一方で、この試合のメジャーリーグ選抜の先発、アール・ホワイトヒル(英語版)は左腕であり球の出所が沢村と違うため参考程度にしかならないが、9回3安打完封だった。また、全米エースのレフティ・ゴメスは「沢村の球速変化のないカーブでは、どんなに鋭く曲がってもメジャーの打者には打たれる。直球の方がよい、あのスピードで浮いてくるとちょっと打てない。だからベーブはみなにカーブを狙わせた」と評している。 次に、11月28日の第16戦(京都市設球場)に先発するが、沢村の投球の癖(カーブを投げる際に口を歪める)が研究されていたこともあって8点を失ってノックアウトされる。また、12月1日の最終第18戦でも先発するが、4回9失点と全く通用しなかった。結局、沢村は草薙球場の第9戦以外の4試合では0勝3敗・防御率10.65(20回2/3で33失点・24自責点)と全く振るわず、通算でも0勝4敗・防御率7.85(28回2/3で34失点25自責点)に終わっている。それでも、この年の日本選抜対メジャーリーグ選抜の試合が日本の0勝16敗に終わったこともあり、草薙球場での沢村の快投は現在でも日本で語り草となっている。
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