全日本選手権参戦とは? わかりやすく解説

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全日本選手権参戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:41 UTC 版)

増田章」の記事における「全日本選手権参戦」の解説

高校卒業した1981年昭和56年)の11月第13回オープントーナメント全日本空手道選手権大会19歳初出場2回戦前年王者である三瓶啓二対戦再々延長戦までもつれる激戦通常延長戦は2回迄)となったが、判定負けした。しかし、この戦いぶり若手成長株注目を浴びる1982年昭和57年)の第14回全日本選手権では後にお互いライバル認め合う松井章圭ベスト4目指し対戦延長3回に及ぶ激戦となり、試割り判定敗退し、8位入賞となった詳細は#逸話の「判定見放され続けた増田」を参照)。 第14回全日本選手権後、大学進学断念した増田は、浜井識安1年間契約当時、浜井が開設した岸和田市にあった大阪南支部の師範代務めた。この時大西靖人一緒にトレーニング積み大西が得意としていた奥足の下段回し蹴り攻撃見て防御仕方研究したりと自分が奥足の下段回し蹴り使いこなせるよう練習したり、ウエイトトレーニングも本格的に取り組み練習重ねていた。 1983年昭和58年第15回全日本選手権では、準々決勝三好一男と対戦体重判定敗退し5位入賞となったが、第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。1984年昭和59年1月第3回全世界選手権開催3回戦ミッシェル・ウェーデル延長2回の末、判定下す。続く4回戦大西靖人対戦。この試合延長3回闘い途中増田二本旗が上がったが、主審引き分けとした。最終延長どちらかに旗を上げなければならないスプリットディシジョン増田は2対3敗退した。もし、試割り判定持ち込まれれば、増田勝利であった詳細は#逸話の「判定見放され続けた増田」を参照)。その杉板による試割りでは、それまでウィリー・ウィリアムス保持していた26記録上回る正拳6足刀8枚・手刀7猿臂(えんぴ)8合計29割り当時新記録を樹立した(現在の記録)。 その後周囲増田才能惜しんだが、増田選手引退する事を決意写真を学ぶために上京したとはいうものの完全に空手止めたのではないので、山田雅稔管轄する東京都下城西支部移籍して選手としてではなく空手続けながら写真専門学校通った増田写真学校学んだ事で自分浅薄な考え性急な性格再確認をしただけでなく、思考柔軟性を持つ事ができるようになったという。

※この「全日本選手権参戦」の解説は、「増田章」の解説の一部です。
「全日本選手権参戦」を含む「増田章」の記事については、「増田章」の概要を参照ください。

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