全日本選手権参戦
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高校卒業した1981年(昭和56年)の11月、第13回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に19歳で初出場。2回戦で前年の王者である三瓶啓二と対戦。再々延長戦までもつれる激戦(通常、延長戦は2回迄)となったが、判定負けした。しかし、この戦いぶりで若手の成長株と注目を浴びる。1982年(昭和57年)の第14回全日本選手権では後にお互いがライバルと認め合う松井章圭とベスト4を目指し、対戦。 延長は3回に及ぶ激戦となり、試割り判定で敗退し、8位入賞となった(詳細は#逸話の「判定で見放され続けた増田」を参照)。 第14回全日本選手権後、大学進学を断念した増田は、浜井識安に1年間の契約で当時、浜井が開設した岸和田市にあった大阪南支部の師範代を務めた。この時大西靖人と一緒にトレーニングを積み、大西が得意としていた奥足の下段回し蹴りの攻撃を見て、防御の仕方を研究したりと自分が奥足の下段回し蹴りを使いこなせるよう練習したり、ウエイトトレーニングにも本格的に取り組み、練習を重ねていた。 1983年(昭和58年)第15回全日本選手権では、準々決勝で三好一男と対戦。体重判定で敗退し5位入賞となったが、第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。1984年(昭和59年)1月に第3回全世界選手権が開催。3回戦でミッシェル・ウェーデルを延長2回の末、判定で下す。続く4回戦で大西靖人と対戦。この試合も延長3回を闘い、途中増田に二本旗が上がったが、主審が引き分けとした。最終延長はどちらかに旗を上げなければならないスプリットディシジョンで増田は2対3で敗退した。もし、試割り判定に持ち込まれれば、増田の勝利であった(詳細は#逸話の「判定で見放され続けた増田」を参照)。その杉板による試割りでは、それまでウィリー・ウィリアムスが保持していた26枚の記録を上回る、正拳6枚・足刀8枚・手刀7枚・猿臂(えんぴ)8枚の合計29枚を割り、当時の新記録を樹立した(現在の記録)。 その後、周囲は増田の才能を惜しんだが、増田は選手を引退する事を決意。写真を学ぶために上京した。とはいうものの完全に空手を止めたのではないので、山田雅稔が管轄する東京都下城西支部へ移籍して、選手としてではなく、空手を続けながら写真の専門学校に通った。増田は写真学校で学んだ事で自分の浅薄な考えや性急な性格の再確認をしただけでなく、思考の柔軟性を持つ事ができるようになったという。
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