全日本選手権と世界選手権
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「上村春樹」の記事における「全日本選手権と世界選手権」の解説
1973年3月に大学を卒業すると、世界を目指すには東京か大阪にいるのが常識だったこの時代に、周囲の反対を押し切って宮崎県延岡市の旭化成柔道部に入部。入社早々の4月29日に出場した2度目の全日本選手権で優勝し日本一の柔道家となった。上村本人は「抽選の悪戯によるマグレ」とコメントしているが、大阪府警柔道師範(当時)の広瀬巌は大会論評で「柔軟な腰と堂々たる体躯で姿勢正しく、対戦中は退かず、常に前に出る度胸を持った本格の柔道家」と上村を称賛している。同年10月の世界選手権無差別に出場して決勝まで進むも、二宮和弘との日本人対決で敗れ準優勝に終わる。 翌1974年は4月の全日本選手権で、永くライバルと呼ばれる遠藤純男(警視庁)に敗れてベスト8止まり。この際に“やはり延岡では無理”“上村は終わった”と表現されたのが悔しくて、それまでの前か後ろに投げる技だけでなく、横へ崩す技・横へ投げる技を鍛え上げる。また、延岡という地では練習相手になる選手が極端に少ない中、同じ境遇の鹿児島に拠点を置きながら終戦直後に全日本選手権を3度制した吉松義彦にあやかって、膝付き一本負け稽古(自分が技を掛ける時や相手の技を受ける時に、上村の膝が畳に付いただけでも上村の一本負けとなる)を採り入れ、加えて、自分が技を掛ける時は出す技を予告するなど、かなり独特の練習を行った。 1975年の全日本選手権では初戦から3回戦まで僅差の判定で辛勝し、準決勝戦では日の出の勢いで勝ち進む同郷・熊本出身の高校生山下泰裕から大内刈で有効を取り優勢勝ちを収めた。2年前と同じ高木長之助との顔合わせとなった決勝戦では、両者ポイント無しながら、習得した横捨身技の浮技で試合を終始優勢に進めた上村の判定勝となり自身2度目の優勝。同年10月の世界選手権に無差別で出場した上村は、準決勝戦でショータ・チョチョシビリ(当時ソ連代表)と当たった。上村は体ごと放り投げられ、頭を打って気絶したが、上村の体重が軽すぎた(当時約100kg)ため、勢い余ったチョチョシビリも頭を打ち気絶してしまった。上村の体が運よくがチョチョシビリの体の上に落ちたため、そのまま押さえ込みとなり、一本勝ちした。続く決勝戦では前回大会で敗れた二宮和弘を判定で破り、世界選手権での初優勝を遂げた。
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