作者ワターソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 04:29 UTC 版)
「カルビンとホッブス」の記事における「作者ワターソン」の解説
連載初期の頃から、ワターソンはシンジケートに対して違和感を持っていた。シンジケートは、ワターソンに対して登場人物の商品化と単行本第1巻発売に伴う全米各地へのプロモーションを要求してきたが、ワターソンはこれを拒否した。ワターソンは、商業化を漫画の世界へ悪影響を及ぼすものと見ており、商業化によって作品と作者の清純性が汚されると考えていたのである。 ワターソンはまた、新聞紙面の中で漫画の占めるスペースが徐々に縮小していることにも不満を感じるようになる(アメリカの新聞には漫画面というものが存在しており、1面に多数の漫画が掲載されている。漫画のほとんどは8コマである。)。彼は、単純な会話や中身のない芸術作品以上の何かのためのスペースが新聞に必要だと考えていた。芸術形式としての漫画が希薄で、味気なく、独創性のないものになることを嘆いてもいた。ワターソンは、紙面の数コマ分しか各漫画に割り当てられないことに反対して、紙面一杯分の『カルビンとホッブス』を掲載することに取り組み始めた。彼は、『Little Nemo』のような古典漫画が持っていた芸術の自由に憧れていたのである。そして彼は、その自由の下でどんなことができるのか、の一例を『The Calvin and Hobbes Lazy Sunday Book』(日曜版の作品を収載した単行本)の1ページ目に提示した。 ワターソンが最初の長期休暇(1991年5月~1992年2月)を取っている間、シンジケート(UPS)は以前に掲載した『カルビンとホッブス』を再使用して各新聞社へ配給した。ほとんどの新聞編集者はこの動きを歓迎しなかったが、非常に人気のある作品だったため、読者を失うことを恐れてシンジケートの選択を受け入れざるを得なかった。そしてワターソンが復帰すると、シンジケートは『カルビンとホッブス』の日曜版について、新聞紙面の半分を割り当てることをワターソンに保証したと発表した。これに対して、多くの新聞編集者(と幾人かの漫画家ですらも)は、傲慢であり漫画界の慣習に反しているとして批判を加えた(ワターソンは全く無視したけれども)。ともあれ、ワターソンは日曜版漫画における創造的自由をより一層享受することとなったのである。この変化以前、ワターソンは決められたコマ数・レイアウトの中で僅かな自由しか発揮し得なかったが、変化以後は好きなようにレイアウトすることができた。実は、この変化より前に、彼が抱いていた標準的なスペース配分への不満が幾つかの作品に現れている。その一例が1988年のある日曜版作品である。大きな一コマから成るこの作品は、人物や吹き出しが全て最下端に集中しており、新聞編集者がこの作品を紙面に収めるには作品の上端を切り捨てざるを得ないようになっていた。 ワターソンはこの変化に関して、嬉しいことにシンジケートから期待以上の自由度が与えられたこと、当初は新聞掲載の取りやめが相次いだが(人気作品であるために)数週間も経たないうちに再掲載が申し込まれてきたこと、自分の試みは新聞へ新たな活気を産み出したと考えていること、等について語っている。 こうした変化にも関わらず、『カルビンとホッブス』は絶大な人気を保ち続け、ワターソンはそのスタイルと技術をより深化させていくことができた。 本作品の連載終了後、ワターソンは公式の場に一切姿を見せておらず、新作の話題も聞こえていない。彼は自らの信念に従って、サインや漫画キャラクターの商品化に拒否の姿勢を貫いている。ただしごく僅かな例外として、彼の自宅近くにある個人経営の書店の棚に、彼のサイン入り『カルビンとホッブス』が陳列されていることが知られている。
※この「作者ワターソン」の解説は、「カルビンとホッブス」の解説の一部です。
「作者ワターソン」を含む「カルビンとホッブス」の記事については、「カルビンとホッブス」の概要を参照ください。
- 作者ワターソンのページへのリンク