京都・奈良時代
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我孫子において「充実期」を過ごしていた直哉であったが1922年(大正11年)の末になると、長編執筆の行き詰まりもあり「自分は読む事も書く事も嫌いだ」「読みも書きもしたくない」と日記に書くほど作家としての自信を失っていた。そうした状態から抜け出し気分転換を図る意味もあってか、直哉は1923年(大正12年)3月に我孫子を離れて京都市上京区粟田口三条坊町に移り住む。同年10月には京都郊外の宇治郡山科村に転居。短編「雨蛙」を完成させ、翌1924年(大正13年)1月の『中央公論』に発表する。直哉によると「『暗夜行路』を書き上げたら書こうと思っていたのを、『暗夜行路』が何時までも埒あかないので、これを先に書いてしまった」という。この作品は直哉の全作品中、仕上げるのに最も時間のかかった短編だとされる。ほぼ同時期に、直哉は祇園花見小路の茶屋の仲居と浮気をする。このときの体験を基に、いわゆる「山科もの」四部作(「山科の記憶」「痴情」「些事」「晩秋」)をのちに残している。 1925年(大正14年)4月、学習院初等科時代からの友人である九里四郎の誘いもあり、今度は奈良県幸町に転居。幸町に住んでいた1926年(大正15年)6月に美術図鑑『座右宝』を刊行する。これは尾道・松江時代から東洋の古美術に関心を持っていた直哉が、手元に置いて東洋の古美術をいつでも鑑賞できるような写真集を欲して刊行したものである。その後、自ら設計した邸宅が奈良の上高畑に完成したため、1929年(昭和4年)4月、直哉はそこに引っ越した。この上高畑で直哉は多くの文化人と交流した。交流を持ったのは、直哉の後を追うように奈良に移り住んだ瀧井孝作や小林秀雄、直哉を慕って上高畑の邸宅を訪れた小林多喜二らの文化人である。こうした交流の結果、直哉の上高畑の邸宅はいつの頃からか「高畑サロン」と呼ばれるようになった。 一方で創作のほうでは、雑誌『改造』における「暗夜行路」の連載が1928年(昭和3年)を最後に中断される。さらに直哉は1929年(昭和4年)から1933年(昭和8年)にかけて「リズム」などの随筆を除き休筆をしている。当時の文壇におけるプロレタリア文学を重んじる風潮への不満も休筆の一因とされる。この休筆期間中、直哉は里見弴と一緒に満州・天津・北京を旅行している。直哉にとって初めての国外旅行であった。この旅行は南満州鉄道からの招きによって実現し、満鉄が旅費を負担するのと引き換えに直哉らが新聞か雑誌に満州を紹介する記事を書く約束がなされていた。しかし里見が詳細な紹介記事を執筆したこともあり、直哉は紹介記事を書かず、代わりに満州旅行をする動機となったエピソードを小説として執筆した。それが「万暦赤絵」であり、この作品で直哉は創作活動を再開した。1934年(昭和9年)には「日曜日」「朝昼晩」「菰野」「颱風」といった作品を立て続けに発表した。1937年(昭和12年)には中断していた「暗夜行路」を完結させた。 詳細は「暗夜行路」を参照
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