京都・奈良時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 京都・奈良時代の意味・解説 

京都・奈良時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:26 UTC 版)

志賀直哉」の記事における「京都・奈良時代」の解説

我孫子において「充実期」を過ごしていた直哉であった1922年大正11年)の末になると、長編執筆行き詰まりもあり「自分は読む事も書く事も嫌いだ」「読み書きもしたくない」と日記に書くほど作家として自信失っていた。そうした状態から抜け出し気分転換を図る意味もあってか、直哉1923年大正12年3月我孫子離れて京都市上京区粟田口三条坊町移り住む同年10月には京都郊外宇治郡山科村転居短編雨蛙」を完成させ、翌1924年大正13年1月の『中央公論』に発表する直哉によると「『暗夜行路』を書き上げた書こう思っていたのを、『暗夜行路』が何時までもあかないので、これを先に書いてしまった」という。この作品直哉全作品中、仕上げるのに最も時間かかった短編とされる。ほぼ同時期に直哉祇園花小路茶屋仲居浮気をする。このときの体験を基に、いわゆる山科もの」四部作(「山科の記憶」「痴情」「些事」「晩秋」)をのちに残している。 1925年大正14年4月学習院初等科時代からの友人である九里四郎誘いもあり、今度奈良県幸町転居幸町住んでいた1926年大正15年6月美術図鑑座右宝』を刊行する。これは尾道松江時代から東洋古美術関心持っていた直哉が、手元置いて東洋古美術をいつでも鑑賞できるような写真集欲して刊行したのであるその後、自ら設計した邸宅奈良の上高畑完成したため、1929年昭和4年4月直哉はそこに引っ越したこの上高畑直哉多く文化人交流した交流持ったのは、直哉後を追うように奈良移り住んだ瀧井孝作小林秀雄直哉慕って上高畑邸宅訪れた小林多喜二らの文化人である。こうした交流結果直哉の上高畑邸宅はいつの頃からか「高畑サロン」と呼ばれるようになった一方で創作のほうでは、雑誌改造』における「暗夜行路」の連載1928年昭和3年)を最後に中断される。さらに直哉1929年昭和4年)から1933年昭和8年)にかけて「リズム」などの随筆除き休筆をしている。当時文壇におけるプロレタリア文学重んじる風潮への不満も休筆一因とされる。この休筆間中直哉里見弴一緒に満州天津北京旅行している。直哉にとって初めての国外旅行であった。この旅行南満州鉄道からの招きによって実現し満鉄旅費負担するのと引き換え直哉らが新聞雑誌満州紹介する記事を書く約束なされていた。しかし里見詳細な紹介記事執筆したこともあり、直哉紹介記事書かず代わりに満州旅行をする動機となったエピソード小説として執筆した。それが「万暦赤絵」であり、この作品直哉創作活動再開した1934年昭和9年)には「日曜日」「朝昼晩」「菰野」「颱風」といった作品立て続け発表した1937年昭和12年)には中断していた「暗夜行路」を完結させた。 詳細は「暗夜行路」を参照

※この「京都・奈良時代」の解説は、「志賀直哉」の解説の一部です。
「京都・奈良時代」を含む「志賀直哉」の記事については、「志賀直哉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「京都・奈良時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「京都・奈良時代」の関連用語

京都・奈良時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



京都・奈良時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの志賀直哉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS