五木、渡の降板
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「大脱獄 (1975年の映画)」の記事における「五木、渡の降板」の解説
これらキャスティングの変更により、五木の立場は微妙なものになった。こうなるとタイトル順は、トップが主演の高倉、二番目が大物ゲスト渡、トメに菅原とくれば歌謡界のチャンピオン五木はどうしても四番手。当時の歌手としての五木のギャラは日だて四、五百万円だったが、映画のゲスト出演だとノーギャラに近い額。これではメンツが立たない上、野口プロも「映画は初めてであり、やる以上は歌手がチョイ役で顔を出したというだけのものにしたくない」と話し、東映サイドも「五木さんに出ていただく以上は、やはりそれなりの配役を考えなくてはならない」と調整がつかなくなり、ギャラ問題もあり五木が正式に降板を申し出た。 本来の台本では高倉と渡はがっぷり四つに組む予定だったため、渡の入院がまた長期になり、高倉と菅原のダブル主演の趣きで、高倉、渡、菅原の3大スター共演と変更になり、実際に3人の名前の書かれたポスターも製作された。この試みは特別出演は別にして一作品一スターの原則をあえて破る"東映春季攻勢の大ばくち"といわれ、三人のギャラは合わせて2000万円。制作費の三分の一を占めた。 ところが、渡はこの年2月に公開された『仁義の墓場』前後の全国キャンペーンで再び体調を崩し、微熱が続くため1975年2月20日、国立熱海病院で精密検査を受けた。本作のクランクインが1975年3月初旬に迫っていたため、熱海病院の主治医から「体が疲労しているのに雪の北海道でロケするなんてとんでもない」と大反対されたため、急遽東映は、渡を特別出演的な役に変更して3月下旬に東京のスタジオで2、3日で済む撮影に変更。渡には充分静養してゲスト出演には間に合うようにしてもらいたいと伝えた。高倉、菅原、渡の三人の顔が書かれたポスターはこの時点で製作されたもの。 渡は病床から高倉と菅原に詫びの電話を入れた。また渡には体調を万全にしてもらいゴールデンウイーク公開を予定した東映上半期の目玉作品『県警対組織暴力』で、再び深作欣二監督と組み、菅原と渡の初共演を全力投球して欲しいと渡にも伝えた。ところが渡の発熱が治まらず、体調が悪化したため、熱海病院の主治医から入院を勧められ、1975年3月12日、東大病院に入院した。ここでの最初の診断は異常なしだったため、岡田社長以下、東映で緊急会議が開かれ、「渡は完全復帰する」と判断し『大脱獄』のゲスト出演と『県警対組織暴力』の出演は予定通りと決めた。しかし高熱が続いて下がらず、体調は回復せず面会謝絶が続き、1975年3月29日、渡の所属する石原プロが東大病院で担当医も立ち合いのもと会見を開き、「渡の病気は慢性肺感染症で、3か月間の入院が必要。全快までは6か月間、早ければ夏、遅くても秋までは仕事復帰できる」等の病状説明があった。これで渡は前年に続いて長期入院が決まり、本作を含め以降全ての仕事をキャンセルした。高倉、渡、菅原の共演は以後も実現せずに終わり、渡と高倉、渡と菅原。の共演も永遠に実現することはなかった。 東映は渡降板の対応におおわらわで、どこより焦ったのが宣伝部。『映画時報』1975年2月号は、"高倉健・渡哲也・菅原文太"と三人の名前が大きく書かれたポスターが表紙だった。また高倉、渡、菅原の顔入りで、「北海道の果て、凍る命綱、ガッチリ結んだ男三人...」とコピーの書かれたポスターは既に町に貼られていた。「良心の東映(?)が看板に偽りありでは困る。意地でも封切りまでにはポスターを貼り替えて見せる」と悲壮な決意で、中には新聞64頁分の8シードというバカでかい看板を含め、全国の劇場の看板を全て書き換え、配布ずみの71500枚のポスターは全て回収し、全てがパーになった。また渡が入院した際に特別出演で加えた役は松方、北大路欣也が候補に挙がったが、小池朝雄がキャスティングされた。
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