二代目日本青年館とは? わかりやすく解説

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二代目日本青年館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 02:17 UTC 版)

日本青年館」の記事における「二代目日本青年館」の解説

1925年大正14年)に完成した初代日本青年館老朽化したことから、1971年昭和46年)になると日本青年館評議員会内に「館建設構想特別委員会」が発足翌年1972年昭和47年)にはその発展形である「日本青年館新館建設委員会」として具体的な新館建設計画開始された。 一方日本青年団協議会日青協)でも「日本青年館全国青年団運動の拠点である」という認識の下、その動き呼応して同年新館建設日青協特別委員会」を設け1974年昭和49年)、新館建設のために1975年昭和50年)末までに各道府県青年団1,100万円、計5億円の募金集める等の新館建設運動方針決定した。 しかし、募金達成時期である1975年になって半数上の道府県団が達成至っていなかった。このため1976年昭和51年)の日青協定期大会において執行部は、達成年度を1978年昭和53年)まで延長し何が何でも総額5億円の募金達成すべしという強い姿勢打ち出した議論紛糾したものの、結局この方針は各道府県団に受け入れられ全国精力的な募金活動展開される事となる。各道府県団、及びその加盟団である郡市青年団による地域への全戸訪問美化作業物品販売映画同胞の上映会などの取り組みによって、ついに1982年昭和57年4月新館竣工後ではあったものの募金目標の5億円に達した募金活動平成入って一部続き最終的に神奈川県山梨県を除く44道府県目標額に達し募金総額も5億2千500万円あまりに及んだ日本青年館募金運動の時期は、20近い府県再建含めた地元青年会建設運動が起こる時期重なっており、金銭的負担が各府県団の重荷過ぎたため当初の計画通り募金運動が進まなかったという見方がある一方日本青年館募金運動成し得た事が地元青年会建設運動の大きな自信つながったという見方もある。 かくして青年団による募金加え所有財産であった「浴恩館」「千葉修練場」の売却益年金福祉事業団からの特別融資日本船舶振興会日本自転車振興会からの助成金、さらに文部省全国都道府県など行政からの補助金などにより建設資金着実に集まっていった。特に文部省からは調査研究費も含め総額7億2千300万円補助金交付されており、国が民間施設これだけ大型補助出したのは史上初めであった。 そして1979年昭和54年2月1日常陸宮正仁親王臨席のもと竣工式執り行われ総工費54億円、地上9階地下3階2代目日本青年館誕生した地上9階地下3階建てで、約80室のホテルや1,360名を収容するホールなどを備えていた。 2015年平成27年4月国立競技場建設敷地拡大)にともなう移転要請日本スポーツ振興センターから受け、解体。南に約100メートル先の、西テニス場3月1日閉場跡地移転

※この「二代目日本青年館」の解説は、「日本青年館」の解説の一部です。
「二代目日本青年館」を含む「日本青年館」の記事については、「日本青年館」の概要を参照ください。

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二代目恵迪寮太平洋戦争が近づくにつれて大学当局は寮自治への介入を強めていった。1940年には、寮運営のシステムが寮生の選挙による執行委員会制から大学の任命による幹事会制に変更された。さらに物資不足などの影響もあり、自治の象徴であった自炊制度、購買組合までも廃止されてしまった。寮自治は一時崩壊を迎えていく局面を迎える。寮はいわば戦争のための修練の場となり、朝礼や体操などの実行が強化され、寮生は空腹と束縛に苦しめられた。だがこんな時代の中でも、寮生たちは「いくら外面的に規定しても、内面的に我々の生活を規定できるものではない」という気持ちを持ち続けていた。その後終戦を迎え1946年には新委員会が発足し、寮自治は再建され始めた。しかし、この頃の自治会会が対処しなければならなかったのは、対大学当局的な問題ではなく、深刻な食糧難だった。執行委員は勉学を犠牲にして寮生の食料確保に努め、無断で北大の農場に入り芋などを盗んでいた。そんな辛い時代の中でも、「上級生は下級生よりも余計に食わない。もし食ったものがいたら軽蔑された」という礼儀は続けていた。その後の安保闘争、学生運動の時代を経て、1970年ごろになると寮の老朽化が深刻になり、建て替え問題が本格的になった。当時の寮生たちは、4人部屋での共同生活を通して寮生間の幅広い交流を行い、濃密な人間関係を形成していた。しかし学生運動の影響もあり、文部省は学生の共同生活は社会の危険因子を産むと考え、完全個室で食堂のない寮でないと新しく建ててはならないと決めてしまった。そして大学側もそれに従って新しい寮を建てる意向であった。寮生は反対するが、新たな寮の建設は決定した。使命を終えた旧建物は、その一部が北海道開拓の村に移築復元され、「旧札幌農学校寄宿舎」として保存されている。三代目恵迪寮

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