二代目清基と承久の乱とは? わかりやすく解説

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二代目清基と承久の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 19:27 UTC 版)

平康頼」の記事における「二代目清基と承久の乱」の解説

康頼の嫡男・平清基は承元年中保司職継承した鎌倉3代将軍源実朝死去する頃には、幕府執権北条氏頼朝以来有力な御家人門葉排除し実権掌握していた。後鳥羽上皇諸国広大な荘園を再び取り返そうと、全国武士北条義時追討院宣下した上皇側の予想反し思うように兵は集まらず、圧倒的な鎌倉大軍支えることが出来ずそれぞれの国元逃げ帰った。この戦いで阿波佐々木経高と高重の父子討死して果て600余の兵のほとんどは阿波へ帰らなかった。阿波国に対して佐々木氏に代わって、小笠原長清阿波守に任じた長清阿波入り居城攻め、ほとんど兵のいない鳥坂城炎上し、経高の二男高兼は城を捨て山中に逃げたが、小笠原氏は高兼の生存を許さなかったため、一族家臣達が百姓となって、この地に住む事を条件に、自ら弓を折り腹を切って自害した神山町鬼篭野地区にある弓折の地名は、高兼が弓を折って自害した所で、同地に多い佐々木姓は、かつての阿波守護職近江源氏佐々木経高後裔達であるといわれる一方麻植保では清基が保を没収され保司職解任された。そして清基に代わって小笠原長清嫡男小笠原長経阿波守護代及び、麻植保の地頭補任された。理由は清基が麻植保の兵をつれて、佐々木氏に従って上皇軍に加わっていたというのである事実清基は、承久の乱上京していたが、上皇軍には加わらなかったと申し立て保司解任されたのを不服として、長経と論争をおこし、無実鎌倉訴えて、長経と対決裁判をした。長経の申し状によれば、清基は承久3年夏、上皇方へ加わるために上京し和田朝盛と共に戦場へおもむいた申し立て証拠書状などを提出した。これに対して清基は、叔父中原仲康が、和田朝盛朋友であったから対面したが、かの兵乱には自分もとより麻植保の衆も参加していないと主張した。しかし長経の提出した証拠の仲に、清基から経高に出した手紙があり、軍に加わる内容書かれていたため、裁判結果は清基が破れた『吾妻鏡』二十六巻に、承久三年十月二十八日、平清基麻植保司没収記事がある。 三代目の平俊職は官職失って浪々の身となり京に出たが、承久の乱敗者には仕官先もなく、賊徒の輩と徒党組み、伊具四郎毒矢射殺し捕らえられた。首謀者諏訪刑部左門斬首となり、俊職と牧左衛門は、昔、祖父の康頼が流されていた鬼界ヶ島流されて消息絶ち森藤平家絶家した。 俊職のおじ平康利は一族まとめて森藤引き払い、昔、父・康頼が赴任した越前国足羽郡縁者頼って彼の地去り、康利は出家して探嶺院に入りその子の康綱も出家して後を継ぎ、探嶺院を浄土真宗(現在は出雲路派)心光山常照寺改め同寺の開祖となる。のち権大僧都に昇ったとされるまた、その子孫代々となった

※この「二代目清基と承久の乱」の解説は、「平康頼」の解説の一部です。
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