事件の被害および長期化の要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 13:31 UTC 版)
「あさま山荘事件」の記事における「事件の被害および長期化の要因」の解説
籠城側に有利な地形であったこと 山荘は切り立った崖に建設され玄関前は平地(道路)であったため、図らずも難攻不落な要塞のような構造であった。更に付近には長時間の見張りや休憩などが可能な他の建築物も無かった。これらの地形によって「確報を得るための接近」や「突入」がまともにできない程に苦戦を強いられた。佐々淳行は著書の中で、この山荘を「昭和の千早城」と評している。 犯人たちがただ銃の発砲や爆弾の投擲を繰り返したこと 犯人たちは、警察の要求を一切聞き入れぬばかりか一切の主張や要求をしなかったため、気味悪がった警察は「犯人の人数」や「犯人と人質の山荘内での位置」、「人質の安否」などの突入作戦に必要な確報を収集するために何度も突入を延期して偵察を繰り返したが、結局まともに接近できずその多くは制圧後まで収集できなかった。後に犯人自身や犯人を知るメンバーなどの人物たちは「交換条件の提示は考えておらず、『警察を相手に殲滅戦を展開した末に死ぬんだ』という意識しか無かった」と供述している。 警察側が銃の使用を制限したこと 犯人が頻繁に発砲してくるのに対し、警察は発砲を突入直前まで許されなかった。警察側は「火器使用は警察庁許可(拳銃や狙撃銃の使用には一々警察庁からの発砲許可が必要)」という制限を設け、犯人を射殺せずに生け捕った。人質の無事救出が最重要目的であり、人質に流れ弾が命中する懸念もあるが、以下の二つが大きな理由である。 ・射殺された犯人を英雄視する者の出現を恐れたこと 犯人の射殺や自害など「警察との戦いで犯人が死亡」によって、犯人が「殉教者」として神格化され他の集団やメンバーなどに影響を与える可能性があると考えられた。1960年の安保闘争で死亡した樺美智子や1970年の上赤塚交番襲撃事件で射殺された柴野春彦などの事例が想定されていた。 ・射殺した警官が殺人罪で告発される懸念があったこと 本事件の2年前(1970年)に発生した瀬戸内シージャック事件の際には、犯人を射殺した警官が自由人権協会所属の弁護士から殺人罪などで告発され、マスコミに報道で実名・顔写真を晒された。「射殺は正当防衛」として告発は不起訴とはなったが、マスコミに吊し上げられた警官は退官した。この事件の二の足を踏み、本事件では犯人を生け捕る方針で対応している。 ヘルメットの意匠が目立ったこと 事件現場での隊長・副隊長のヘルメットの意匠は指揮を円滑に進める為に当時は少し変わっていた。それが災いし犯人に隊長格を特定および狙撃によって、突入部隊の指揮系統が崩壊し混乱した隊員が続出した。 盾に防弾機能が無かったこと 当時はまだ技術的にバリスティックシールド(防弾機能のある盾)は開発されていなかった。事件に使われたジュラルミン製の盾は暴動用で「犯人の体当たり」や「投石などの投擲物」、「鈍器による打撃」や「刃物による刺突・斬撃」などはある程度防げるが、弾丸は貫通するため防弾用に盾を2枚重ねて突入した。だが重量が2倍となったことで隊員の動きが鈍り、盾の覗き穴越しからは前が見え難くなってしまった。前述のヘルメットの事情もあり、前方確認の為に盾から顔を出した際に頭部を狙撃され死傷した警官が続出したため、結果的に被害の大きな要因となった。
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