中日からドラフト1位指名
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惜しくも夏の甲子園出場を逃したが、34イニング連続無失点のほか6試合38イニングで52奪三振を記録したその剛腕は早くからプロ野球界から注目を集め、『中日新聞』記者・村井博美は「もっと大きな舞台(プロ野球)であの速球を見ることができそうだ」と期待を寄せていた。また懸案事項だった右肩腱板損傷についても「『その後遺症は100%ない』と言ってよい」(巨人・関東孝雄スカウト)段階まで回復しており、同年のドラフト会議を控えて高校生では宇和島東高校・平井正史とともに「ドラフト1位候補」と高く評価されていた。 一方で平田本人は地元・愛知県名古屋市に本拠地(ナゴヤ球場)を置く中日ドラゴンズへの入団を熱望しており、ドラフト会議前(後述のプロ球団接触解禁後)には中日以外にも近鉄バファローズ・ヤクルトスワローズ・読売ジャイアンツ(巨人)やオリックス・ブルーウェーブなど7球団が訪れて対面調査を行ったが、平田は挨拶に訪れた7球団のスカウトに対し「プロ野球でプレーしたいが地元の中日以外は入団拒否する。中日で活躍する自分の姿を家族・周囲の人に間近で見てもらいたい」と公言し、中日以外の球団からの勧誘はすべて断っていた。その相思相愛ぶりに対し巨人・伊藤菊雄スカウトは「『平田君が中日で決まり』なんて誰が決めたんだ」と引き下がらない姿勢を見せていた一方、獲得を狙っていた球団の中には豊田大谷高へ電話で「平田君は中日に行くのが一番いい」と「獲得断念」の意向を伝えた球団もあったほどだった。 中日球団としても過去に槙原寛己・工藤公康・松井秀喜と地元の逸材選手獲得を逃し続けた苦い経験があったことから、早い時期から地元出身でかつ「将来性はもちろん即戦力の期待もかかる」逸材だった平田に関心を示していた。そのため1993年10月7日までに「ドラフト会議で平田を1位指名する」と方針を決めた中日球団社長・中山了は「逆指名してくれて非常に嬉しい。それに対し誠意を示す意味でも1位指名する。スカウトからは『地元出身選手では星稜・小松辰雄以来の逸材』と報告を受けている」とコメントしたほか、当時の監督・高木守道も「1位で指名しなければ他球団に奪われてしまう選手。即戦力として計算できるだろう」とコメントしていた。 平田は1993年10月14日に愛知県高等学校野球連盟(愛知県高野連)宛に郵送した「野球部員登録抹消届」を受理されたことでプロ野球球団との接触が可能になり、スカウトの事前調査に応じることが可能な身分となった。その5日後となる1993年10月20日には豊田大谷高校で中日・法元英明スカウトが12球団で最も速く平田と交渉して「1位指名する」と伝え、平田も改めて「中日でプレーしたい。他球団から指名がないことを祈っている。仮に他球団が指名権を獲得した場合は入団拒否する」と中日入り希望をアピールした。さらに1993年11月5日に豊田大谷高で中日・岡田英津也球団編成部長から初めて挨拶を受け「君はこれから大きく伸びる。頑張ってほしい」と激励された際にも改めて「中日以外は入団拒否」の意向を伝え、中日球団もドラフト会議前日(1993年11月19日)までに編成会議にて「平田を1位・鳥越裕介(明治大学)を2位で指名する」と確認した。 ドラフト会議当日(1993年11月20日)まで「オリックスが強行1位指名する可能性がある」と囁かれてはいたが、オリックスは結局平田を断念して宇和島東高校・平井正史を1位指名した。結局ほか11球団から重複指名を受けず中日の単独指名が確定した直後、平田は記者会見で「仮に落合(博満)さんが他球団へ移籍すれば対戦機会が巡ってくるので、その時は内角球で思い切り勝負したい。そのために早く一軍に上がりたい」とコメントした。中日球団にとって地元出身の高校生ドラフト1位指名選手は1986年・近藤真一(享栄高校)以来だった。
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