中日にFA移籍
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1998年5月中旬に武田はプロ入り後初となるフリーエージェント (FA)の権利を取得した。しかしダイエー球団は、シーズン中に武田のFA権行使を控えた下交渉を打診せず、武田は同年11月4日にFA権の行使を宣言。ダイエーとの慰留交渉では現場首脳陣とのすれ違いがあった一方、3年前にも武田を獲得しようとした星野監督がFA宣言直後に獲得に名乗りを上げた。同月24日にはダイエーの中内正オーナー代行から「骨を埋める球団はどこがいいのか考えろ。星野監督がいなくなった時のことは考えているのか」と慰留されたが、その直後に『中日スポーツ』の記者に対し「気持ちはほぼ固まった。自分は島岡(吉郎・元明大野球部)監督に育てられた人間だ。星野監督の意見には共感できる部分が多い」と話し、翌26日には中日入りを決断した。 同月27日に中日へ入団の意思を伝え、翌28日には正式に中日入りを表明。なお中日だけでなく、巨人(長嶋茂雄監督)もFA宣言以降、水面下で中日より良い条件を提示していたが、武田は中日移籍を選択した。背番号は前田幸長が着用していた18に決まり、同月30日に中日と正式契約(契約金4,200万円を含めて3年で最高4億5,000万円の複数年契約)を締結した。星野監督は入団決定後、起用法について「(武田本人は)『中4日でも』と言っていたが、(セ・リーグは)DH制じゃないんだから、とりあえず中5日でいく」「(当時の抑え)宣の状態が万全でない時や、宣につなぐ遠藤や大塔に不安がある時は(抑えの経験が豊富な武田に抑えを)十分に任せられる」と話していた。
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