中央集権体制と城下町の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:22 UTC 版)
「東北地方の経済史」の記事における「中央集権体制と城下町の没落」の解説
江戸時代の城下町は、それぞれの藩の版図全体を治める政治中枢であり、かつ、経済中枢でもあった。城下町には町割りがあるため、現在の「都市 (基礎自治体)」と似たものと考えがちであるが、実際は藩全体から税収が集まるため、「市域」は藩全体に及んでいたと考えるのが妥当である。また、当時の富の中心が米だったため、版図の広さや生産力(石高)が経済力に反映していた。現在の感覚でいうと、城下町は「中心商店街」であり、藩は「都市圏 (広域都市)」のような状態であった。この見方だと、藩内の家臣の所領は、現在でいう私有地と似たものとなる。藩を「県」と見なした場合は、家臣たちの治める「村」はあるが、「市」という自治体は存在せず、県庁のみが商店街(城下町)にある状態となる。 明治時代初期の廃藩置県は、数多くあった藩、すなわち「都市圏」の経済基盤の解体を意味し、新たに版図全体からの税収を集めたのは県庁所在地となった。そのため、県庁が置かれなかった多くの城下町は、商業地と化した(現在の「平成の大合併」によって、市町村役場を失った都市や村落と同様な現象が、城下町経済に降りかかった)。最終的に東北地方には6つの県が置かれ、6つの県庁所在地が決まった。江戸時代の幕藩体制は地方分権体制だったため、城下町が全税収を独占していたが、明治政府の中央集権体制では、税収は国へ吸い上げられ、県庁所在地は、国の徴税窓口となって、城下町のような繁栄をみせることは困難になった。そのため、県庁所在地になったとしても、城下町経済のような藩御用達(藩主は華族となって東京移住)や武家(後に秩禄処分される)のみの購買力に依存していた都市は、人口を減らす結果となった。(ただしこれは東北に限らず県庁所在地から漏れた全国の城下町でも該当する事象である。県単位の収支では宮城県を除く各県の税還元率は200%を大きく超えており、手厚い東北振興予算や地方交付金などの国施策により富の再分配の恩恵を享受している側であることに留意されたい。) ただ、東京と青森のほぼ中間に位置していた仙台には、明治政府による東北地方支配の政治的拠点が置かれ、新たな発展を始めた。江戸時代の大都市は、藩内経済を基盤としてなかった京都と大坂以外、天領経済と参勤交代による大名たちの支出に頼っていた江戸、石高の大きい大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・仙台・岡山・熊本・広島・徳島)などは、城下町経済の崩壊の影響を受けた。江戸は東京と改名され、中央集権体制によって天領以外からも税収を得ることとなり、文明開化の恩恵を得た。しかし、鹿児島、岡山、熊本、徳島は、明治政府の地方支配の拠点都市にならずに衰えた。金沢は、地方支配の拠点都市になったものの、東京からも京都からも遠いが故に、人口が予想以上に早く減少して衰えた。一方で、仙台と名古屋と広島は、明治政府による地方支配の拠点都市となって発展した。名古屋は東京と京都を結ぶ流通拠点ともなって発展し、広島は工業が発展して軍事の中枢機関が置かれた為に発展したので、名古屋と広島は仙台よりも早く発展した。
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