中央防郭(シタデル)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:05 UTC 版)
弩級戦艦の装甲の大半は防郭(シタデル)の外周に集中されていた。シタデルとは艦で最も重要な部分を覆う4枚の装甲壁と1枚の装甲された屋根で作られた箱である。シタデルの側面は艦の「装甲帯」であり、前部砲塔の前から後部砲塔の直後までの船体側面に装着されていた。シタデルの前後は2枚の装甲隔壁であり、それぞれ装甲帯の前後の端を繋いでいた。シタデルの「屋根」は装甲甲板である。シタデルの中には、機関とボイラー、主砲の弾薬庫が収められた。それらはいずれも、もし被弾した場合には艦が行動の自由を失うか、破壊される恐れのあるものだった。この箱の「床」は船殻の底であり、これは装甲されていなかった。 最も初期の弩級戦艦は、最高10,000ヤード (9,100 m) の距離で敵戦艦と交戦することを想定していた。この場合、砲弾は比較的水平に近い弾道で飛来し、艦の主要部分にダメージを与えるためには砲弾が水線かその付近に命中しなくてはならない。この理由から、初期の弩級戦艦の装甲は水線付近の分厚い帯に重点が置かれ、ドレッドノートの場合、その厚さは11インチ (279 mm) だった。この装甲帯の内側には機関区画の防御の足しとなるよう石炭庫が置かれていた。この形態の交戦では、船の主要部分への軽度の間接的損害の恐れもあった。装甲帯より上で爆発した砲弾は、その危険な弾片を四方に撒き散らしたが、爆発前の徹甲弾よりは遥かに薄い装甲で食い止めることができた。上部構造物で爆発した弾片から艦の内部を保護することを目的として、甲板にはごく薄い装甲が施された。 すべての戦艦において、最も厚い防御は中央シタデルに施されたが、海軍によっては装甲帯と装甲甲板を延長するかたちで、より薄い装甲で艦の両端までをおおう、つまり装甲帯を船体の外周全体に延ばしたところもあった。この「テーパード・アーマー」は主要ヨーロッパ諸国、すなわちイギリス、ドイツ、フランスで行われた。この方式は船体の大部分に一定の装甲を施すので、ごく初期の、まだ高性能炸薬弾が重要な脅威と考えられていた当時の弩級戦艦には有効と考えられた。しかしそれは結果として装甲帯の縦幅を非常に短くし、喫水線より上のわずかな幅だけを守るものにする傾向があった。そのため一部の海軍の弩級戦艦では、満載に近い状況では装甲帯が完全に水中に没してしまうという事態も生じた。代替策はアメリカ海軍で考案された「オール・オア・ナッシング(一か八か)」の集中防御方式であった。装甲帯はあくまで高くかつ厚く、また甲板の装甲も厚いものとなっており、一方で船体の端には側面ないし甲板の防御は一切施されなかった。「オール・オア・ナッシング」方式は弩級戦艦艦隊の遠距離砲戦においてはより効果的な防御であったので、第一次世界大戦後にはアメリカ海軍以外にも広まった。 弩級戦艦の進化の過程で、装甲の方式には、遠距離から飛来する砲弾や航空機から投下される徹甲爆弾の、より大きなリスクに対応するように変更が加えられた。後期の弩級戦艦の設計では甲板により厚い装甲が配分された。例えば戦艦大和の場合、主装甲帯の厚さが410 mmであるのに対し、甲板の厚さは200ないし230 mmであった。
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