不正手形事件発覚
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「九州電気軌道不正手形事件」も参照 九州電気軌道の経営を九州水力電気が掌握した直後、両社の経営を揺るがしかねない事件が発生した。九州電気軌道不正手形事件の発覚である。 事件発覚の端緒は前社長松本枩蔵の告白であった。松本は前述の通り1930年10月8日に社長を退任したが、その3日後の10月11日、福岡県知事の松本学を通じて九州水力電気社長の麻生太吉に対し、自身が行ってきた手形の不正発行について告白したのである。告白により松本が専務就任以来10年間にわたって社印・社長印を不当に持ち出し、不正に社名手形を振り出していた事態が明るみに出た。松本が不正手形で得た資金は、書画・骨董の収集、社交界での浪費、義兄松方幸次郎への支援などで私的に消費されたほか、株価を高値で維持し会社の資金調達を円滑にするための自社株購入にも充てられたとされる。この時点で不正手形発行高は2,250万円に達していた。 松本が九州水力電気への自社株売却に応じたのは、その売却益で償還期限の迫る不正手形をひそかに償還するためであった。しかし取得した九州水力電気の社債2,500万円は世界恐慌によって価格が暴落してしまい、その計画は破綻してしまった。こうして麻生に状況を告白するに至ったのであった。松本の告白に対して麻生は、不正の露見により経済界にさらなる混乱を招くのを防ぐべく大蔵大臣井上準之助の協力を取り付け、この件を内密に処理し事後社内外に公表するという対応策を決めた。 不正手形2,250万円は基本的には松本からの私財提供で償還できる金額であったが、その私財の大部分を占める九州電気軌道社債などの有価証券はすでに松本の個人債務約1,900万円の担保となっていたため、まずはこの個人債務を返済する必要があった。解決策として、九州電気軌道はまず政府の意向を受けた日本興業銀行から2,400万円の融資を受け松本の個人債務を返済し九州水力電気社債を収受する、次いで九州水力電気は同じく日本興業銀行から1,500万円の融資を受け前記社債を償還する、最後に九州電気軌道は九州水力電気から受け取った資金で不正手形を決済する、という手続きが採られた。 不正手形の処理は専務となったばかりの村上巧児が奔走し、翌1931年6月2日に全手形の回収が完了した。事件の顛末は6月11日付の重役会において初めて社内に公表され、25日の新聞報道および27日の株主総会において社外にも伝えられた。事件の責任をとって旧経営陣は辞職し、九州電気軌道の役員はすべて九州水力電気系の人物となった。
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不正手形事件発覚
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詳細は「九州電気軌道不正手形事件」を参照 九州電気軌道が1935年(昭和10年)に出版した社史『躍進九軌の回顧』によると、経営陣が交代した直後の1930年10月11日夜、取締役となったばかりの麻生太吉は福岡県知事松本学から至急電報で呼び出され、翌12日朝に大阪へ出向くと、松本知事から前社長松本枩蔵による長年にわたる社名手形の不正発行を打ち明けられた。そして大阪空堀の自邸に戻っていた枩蔵に面会し、本人からも事件を告白されたという。九州電気軌道不正手形事件の発覚である。 会社の調査の結果、枩蔵が過去10年間にわたって社印・社長印を不正に持ち出して関西を中心に振り出していた社名手形は合計2,250万円に及んでおり、支払期日は早いもので10月16日に迫っていることが判明したという。枩蔵はこれら期限が迫る不正手形の償還を、株式譲渡で得た九州水力電気社債の売却益をもって秘密裏に行う予定であったが、世界恐慌による社債価格の暴落でその計画が破綻したために松本知事に事態を告白したとされる。枩蔵が持つ九州水力電気・九州電気軌道両社債やその他の株式、預金、大阪・神戸などの地所、書画・骨董品、生命保険といった私財(会社がつけた資産評価額は3,757万円)は九州電気軌道へ引き渡され、社債・株式を担保として枩蔵が借り入れていた個人債務約1,900万円も会社によって不正手形とともに返済された。 枩蔵が不正手形の発行に手を染めたのは、書画・骨董品の蒐集、社交界での浪費、義兄松方幸次郎の金融支援などに充てる資金を得るためであり、また会社の資金調達を円滑にするための株価の高値維持操作(株式の積極的な買収)が目的であったと指摘されている。不正手形の回収が完了した1931年(昭和6年)6月、九州電気軌道は不正手形事件を一般に公表。さらに不正手形発行以外にも枩蔵ら旧経営陣が長年にわたり業績を水増しし、その上負債への利払いに回すべき資金を配当に充てるといういわゆるタコ配当を続けていたとも発表した。 1931年7月10日、株主の一人が横領罪・背任罪で枩蔵を福岡地方裁判所小倉支部検事局へ告訴した。翌1932年(昭和7年)夏、枩蔵は脳溢血で倒れ半身不随となり東京の病院へ入院する。こうした病状と、枩蔵が会社の事後処理に協力していたのを鑑み、検事局は1933年(昭和8年)5月22日、枩蔵を起訴猶予処分とした。
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