不正手形の処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/19 14:57 UTC 版)
「九州電気軌道不正手形事件」の記事における「不正手形の処理」の解説
2,250万円に及ぶ不正発行された九州電気軌道の社名手形は、基本的には枩蔵からの私財提供(有価証券や預金、地所、書画・骨董品、生命保険など、会社による評価額3,757万円)で処分できる金額であったものの、私財の大部分を占める社債など有価証券はすでに枩蔵の個人債務約1,900万円の担保になっており、これを取り出すには個人債務も返済する必要があった。そこで会社は社名手形と個人債務双方を返済する方針を決定し、政府の意を受けた日本興業銀行の協力の下、次のような手順でこれを処理することとなった。 九州電気軌道は日本興業銀行から1,500万円の融資を受け、この借入金で枩蔵の個人債務を返済し、担保となっている九州水力電気社債を収受する。 九州水力電気は日本興業銀行から2,400万円の融資を受け、この借入金で九州電気軌道の手に渡った自社社債を償還する。 九州電気軌道は、九州水力電気から受け取った資金で不正手形を決済する。 手形処理完了後、九州電気軌道は配当減や新規事業の中止、株式払込金の徴収、枩蔵の私財処分などによって資金を集め、日本興業銀行からの借入金を返済する。 この手順に則り個人債務の返済と手形回収は秘密裏かつ急速に進められたが、事情を知らない銀行から融資の継続を求められたり、日本銀行から急な手形回収を注意されたりするという一幕があったという。また手形回収にあたった専務の村上は北九州の本社を不在がちになったが、当時会社では料金値下げ運動への対処にも追われていたため、専務は当局への陳情・嘆願に出かけているのだろうと思われて怪しまれなかった、というエピソードもある。不正手形の回収は8か月後の1931年(昭和6年)6月2日に完了。6月11日、重役会にて社長の大田黒は初めて事件を社内に公表した。25日には事件が新聞報道され、27日の株主総会にて一般株主にも事件の報告が行われた。また事件の責任をとって麻生・大田黒・村上以外の旧経営陣は辞職した。 大田黒ら新経営陣により、不正手形発行以外にも、枩蔵ら旧経営陣が長年にわたり業績を水増しし、その上負債への利払いに回すべき資金を配当に充てるといういわゆるタコ配当を続けていたことも明らかになった。九州電気軌道は不況下でも年率12パーセントという高配当を維持していたが、それらの業績は架空であり、一転して会社の更生を期する立場に転落した。そして新経営陣の下で、無配断行、人員削減などの再建策が採られた。1933年(昭和8年)6月、三井銀行などの引き受けによる社債発行に成功し、日本興業銀行からの借入金を返済している。一方、会社が枩蔵から収受した私財については、有価証券は1934年までに約3,321万円で処分、書画・骨董品は1933年6月から翌年1月にかけて3回にわけて売立会(入札会)を実施し売却して計501万8,310円の売却益を得た。こうした私財処分でも不正手形・個人債務約4,150万円のうち309万8,000円余りは回収できなかったが、これについては枩蔵に弁償請求はせず、毎期30万円ずつ消却していった。 再建の結果、九州電気軌道は1935年(昭和10年)上期に復配を達成した。これを受けて大田黒重五郎は社長を退任し、同年7月より専務の村上巧児が第4代社長となった。一方、松本枩蔵は翌1936年(昭和11年)2月20日に死去した。長男の松本重治によると、自身が相続した枩蔵の遺産は12円50銭だけであったという。
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