上越新幹線と浦佐駅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 15:13 UTC 版)
当時の国鉄は、自民党議員の圧力により地方へ鉄道を建設し続け、年々赤字が大きくなっていた。そのころ東海道新幹線のバイパス線である「北回り新幹線」が構想された。新宿から松本(長野県)を抜けて北陸に出るというのが当初のルートであった。 ちょうどその頃、自著の「日本列島改造論」で新幹線建設の機運を高めた田中角栄は日本鉄道建設公団法を成立させて日本鉄道建設公団を作り、収益の見込めない地方ローカル線の建設を進め(例:只見線の全線開通)、国鉄による建設がまだ始まっていなかった上越新幹線を着工させた、と言われる。日本鉄道建設公団は日本鉄道建設公団法によって「内閣の指示で建設を行なう」ものとされ、また完成した線路は建設費と共に「国鉄に譲渡できる」とされた(国鉄の予算は国会での承認を得なければ執行できなかったので、内閣の意向と国会の大勢が一致していればまさに「思いのまま」であった)。このことは、国鉄の分割・民営化に際し、永らく田中に仕え「側近」とも言われた秘書の早坂茂三をして「国鉄を愛したはずの『親父』(注:田中のこと)が国鉄に対してなした最大の罪悪」と言わしめた。 このような事情を体現するかのように、田中の選挙区内を経由する上越線の浦佐駅(南魚沼郡大和町→現:南魚沼市浦佐)は、新幹線開業以前は特急「とき」1往復と一部の急行が停車するだけのローカルな小駅だったが、近隣の北魚沼郡 小出町(現:魚沼市)にある小出駅、南魚沼郡六日町(現:南魚沼市 六日町)の六日町駅といった主要駅があるにも関わらず、それらではなく、両町の中間点にあたる浦佐駅が突然新幹線停車駅に決定した。これには地元の住民でさえ奇異の念を抱く者が少なくなく、小出・六日町の両町からも「何故我が町を差し置いて」などと異議を唱える声が上がった。 田中が選挙区としていた旧新潟3区内には越後湯沢駅、浦佐駅、長岡駅、そして燕三条駅の計4駅が存在する。長岡市は県内第2の都市であり、三条市・燕市も周辺に約30万人の都市圏を有する。湯沢町も新潟県を代表するリゾート地のひとつで、1997年に北越急行ほくほく線が開通し、2015年3月に北陸新幹線が金沢駅まで開業するまで、越後湯沢駅は関東地方から北陸地方への重要な乗換駅となっていた。しかし、浦佐駅は現在も、朝夕を別にすれば、広いコンコースやホームは人気が疎らで売店すらなく、がらんとした空間が広がっている(改札外に「NEWDAYS」があるのみ)。 ただし一方で、浦佐駅も地理的には岐阜羽島駅と同じく運用上好都合な30 - 40km間隔の駅配置で、越後湯沢駅と長岡駅との中間地域である。魚野川流域でも最も東寄りになる小出は拠点間ルートから大きく東に外れ、さらに小出駅の構内が狭隘である事、また六日町駅も越後湯沢駅に近過ぎる事や高速運転に障害の大きいトンネル出口近傍に位置するという欠点により、距離的にも比較的妥当で、路線環境面で欠点がない浦佐駅が新幹線停車駅になったとの考え方もある。代わりに関越自動車道のインターチェンジは六日町と小出町には設置されたものの、大和町には長らく設置されなかった(その後大和パーキングエリアにスマートインターチェンジが設置された)。 なお、浦佐駅前には屋根付きの田中角栄の銅像が建てられている。
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