上御茶屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 16:24 UTC 版)
巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした壮大な庭園である。杮葺の御成門を入ると、右は山道、左は池畔の道となる。一般参観者の順路は前者をとる。浴竜池は谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及び4段の石垣で補強されているが、武骨な石垣が見えないよう、3段の生垣と大刈込で覆っている。大刈込とは、異なる種類の樹木を混ぜ植えたものを刈込んで、全体の形を整えたものである。御幸門から石段を上った離宮内の最高所に隣雲亭が建つ。ここまで登ると、急に展望が開け、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景が広がる。 浴竜池には中央の中島(窮邃亭)のほか、2つの島があり、北側の島は三保島、南側の島は万松塢(ばんしょうう)という。中島には東岸から楓橋、北岸から土橋が架かる。楓橋は欄干付の木橋。土橋は上に土を盛った木橋である。中島と万松塢の間には後述の千歳橋が架かる。 上御茶屋の主要建物は隣雲亭と窮邃亭の2棟である。他に池の北岸に止々斎という建物があったが、宝永6年(1709年)に仙洞御所に移築され、天明の大火(1788年)で仙洞御所が焼失した際に失われてしまった。 隣雲亭 - 海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建つ。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建である。なお、霊元法皇が享保6年(1721年)修学院離宮を訪問した際に隣雲亭を訪れたという記録があり、延宝の焼失後、いったん再建されたものが荒廃したため、文政年間に建て直したとみられる。池を眺望するための簡素な建物で、床(とこ)、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられる程度である。建具は間仕切り、外回りとも明障子とする。主室の「一の間」は6畳、その南に「二の間」(3畳)があり、一の間の北側には「洗詩台」と称する2坪(4畳大)の板間がある。洗詩台は南を除く三方を吹き放しとした開放的な空間である。洗詩台、一の間、二の間の西側及び南側には板縁をめぐらし、その周囲は深い軒の下の土庇となる。土庇部分の三和土(たたき)には赤と黒の小石が埋め込まれ「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれている。二の間の東方には中廊下を隔てて東から西へ8畳間、6畳間、6畳間が連なるが、これらは池を眺望できない位置にあり、従者の控えの間である。 窮邃亭 - 後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、杮葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土間庇をめぐらす。内部は18畳の1室とし、間仕切りはない。ただし、北側の東隅に板間が突出し、水屋となっている。水屋には流し、天袋、地袋を設ける。床(とこ)、棚などの座敷飾りはないが、池に面する北面から西面にかけて鉤の手に6畳分を框一段分高くなった「上段」とする。上段の西側窓際には幅1尺、長さ2間の肘掛板があり、これは欅の一枚板である。この建物は、壁でふさがれているのは前述の水屋部分のみで、他は4面とも明障子の戸または窓とする。南側上がり口の軒下の「窮邃」の額は後水尾院の筆である。 千歳橋 - 中島と万松塢の間に架かる。特色ある外観をもった屋形橋であるが、当初から離宮にあったものではない。切石積みの橋台に一枚石の橋板を渡し、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架けたもので、宝形造屋根の頂部には金銅の鳳凰が立つ。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したものである。
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