三顧の礼とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 成句の検索 > 慣用句 > > > 三顧の礼の意味・解説 

三顧の礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)

劉備」の記事における「三顧の礼」の解説

詳細は「三顧の礼」を参照 劉表から新野城(現在の河南省南陽市新野県)を与えられ、ここに駐屯して夏侯惇于禁の軍を博望坡にて撃破した。しかし、劉備元に集まる人が増えたことで、劉表劉備猜疑するようになったまた、劉表外征に熱心ではなかったため、曹操烏丸討伐の隙をついて許昌襲撃するようにという劉備進言劉表受け入れられなかった。 この時期エピソードとして「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきたどうしたのかと劉表聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて何の功業挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」という話がある(裴松之が注に引く『九州春秋』より)。この事から髀肉之嘆(ひにくのたん)という故事成語生まれたこの頃建安12年207年))、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力築いている曹操対抗するためには荊州と西の益州手に入れて天下三分割してその一つの主となり孫権協力して曹操立ち向かうべしという天下三分の計説かれた。 劉表没し劉表の後を継いだ劉琮曹操降伏した諸葛亮劉琮討って荊州奪ってしまえと進言したが、劉備は「忍びないと言って断り逃亡した劉備逃亡すると、劉琮配下周辺の住民10数万付いてきた。そのためその歩みは非常に遅く、すぐにでも曹操軍追いつかれそうであった。ある人が住民捨てて早く行軍し江陵確保するべきだと劉備進言したが、「大事を成すには人をもって大本しなければならない私についてきた人たちを捨てるのは忍びないと言って住民と共に行軍続けたその後曹操軽騎兵隊に追いつかれて大打撃を受け、劉備軍勢すら散り散り妻子離ればなれになり、2人の娘は曹純捕らえられるという悲惨な状況だった。ただし、趙雲乱戦のなか劉備の子阿斗(後の劉禅)と甘夫人救っている。 殿軍務めた張飛少数部隊時間稼ぎをし、関羽の軍と合流する事で態勢立て直し、さらに劉表長子劉琦の軍と合流した長坂の戦い)。 そして孫権陣営から様子見派遣されてきた魯粛面会し諸葛亮孫権の下に同盟使者として派遣する諸葛亮孫権説得成功して同盟を結び、建安13年208年)、赤壁の戦いにおいて曹操軍破った赤壁の戦いの後、劉備荊州南部占拠し劉琦上表して荊州刺史にたて、荊州の南の四郡(武陵長沙桂陽零陵)を併合したその後程なくして劉琦死去すると、家臣たちに推戴され荊州となった劉備荊州治めるようになると、潘濬を治中従事任じた。後に劉備が蜀に入ると、彼を荊州留めて州の事務の処理にあたらせた。 劉備荊州就任後劉備勢力拡大憂慮し孫権は、自らの妹(孫夫人)を劉備に娶わせ、さらに共同して西の蜀(益州)を獲ろうと申し出てきたが、劉備たちは蜀を分け取りにするよりも自分たちだけのものにしたいと考えたためこれを断った

※この「三顧の礼」の解説は、「劉備」の解説の一部です。
「三顧の礼」を含む「劉備」の記事については、「劉備」の概要を参照ください。


三顧の礼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:13 UTC 版)

諸葛亮」の記事における「三顧の礼」の解説

華北ではこの頃建安5年200年)に曹操袁紹打ち破って覇権手中にし、南進機会窺っていた。劉備袁紹陣営離れて劉表頼り荊州北部新野現在の河南省南陽市新野県)に居城貰っていた。 諸葛亮前述のように晴耕雨読日々送っていたが、友人徐庶劉備の下に出入りして諸葛亮のことを劉備話した人材求め劉備徐庶諸葛亮連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備3度諸葛亮の家に足を運び、やっと迎えることができた。これが「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備人物鑑定家として有名な司馬徽訪ね司馬徽は「時勢識る俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、即ち諸葛亮龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備訪ねたという話が載っていたという。その後裴松之自身の案語として「「出師表」には明らかに劉備諸葛亮訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説立てるとは、実に訳の分らぬ話である」とある。この時、諸葛亮劉備に対していわゆる天下三分の計」を故事習って示し曹操孫権と当たることを避けてまず荊州益州領有しその後天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備諸葛亮見識認め軍師中郎将(中佐)左将軍府事(防衛省作戦課長)任じた、また諸葛亮劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明出廬」という。

※この「三顧の礼」の解説は、「諸葛亮」の解説の一部です。
「三顧の礼」を含む「諸葛亮」の記事については、「諸葛亮」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「三顧の礼」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ




三顧の礼と同じ種類の言葉

このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から三顧の礼を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から三顧の礼を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から三顧の礼 を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「三顧の礼」の関連用語

三顧の礼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



三顧の礼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの劉備 (改訂履歴)、諸葛亮 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS