裴松之の注
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陳寿は『三国志』を記述するにあたって信憑性の薄い史料を排除したために、『三国志』は非常に簡潔な内容になっていた。そこで、南朝宋の文帝は裴松之に注を作ることを命じ、裴松之は作成した注を、元嘉6年(429年)に上表とともに提出した。 裴松之の注の特徴は、訓詁の注といわれる言葉の意味や読み、典故などを説明するものは少なく、陳寿の触れなかった異説や詳細な事実関係を収録した点である。陳寿の『三国志』編纂後の出来事も補われている。すでに失われた書物からの引用も多く、貴重な史料である。また、話としては面白いが信憑性に欠ける逸話も数多く収録されており、説話の題材にも取り入れられていった。 裴松之の注釈のうち最も著名なものの一つは、倭人の暦に関するものであり、「魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(魏略に曰く、その俗は正歳四節を知らず、但だ春耕秋収を計算して、年紀と為す。)」である。訳例は「倭人は暦を知らず、春に耕し、秋に収穫することで、年を計算していた。」である。「倭人は、暦を知らず、春に耕すことで1年、秋に収穫することで1年、あわせて1年と計算していた。」という春秋倍歴説の根拠とされる。
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