裴松之注
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
裴注で参照されている主な資料著者書名引用箇所王沈 魏書 188 魚豢 魏略 179※ 虞溥 江表伝 122 韋昭 呉書 115 郭頒 世語 84 張勃 呉録 79 習鑿歯 漢晋春秋 69 不明 英雄記 69 孫盛 魏氏春秋 53 傅玄 傅子 53 ※同じ魚豢の『典略』からも49箇所引用されており、両書は元は同じ本の別部分だったらしい。 高島2000、42-43頁から作成。 陳寿の正史は、戦乱期の限りある史料の中から信憑性の高いもののみ選んで編纂したこともあり、歴史書として高い評価を得たが、一方で他の史書に比べて、記述が簡潔に過ぎるとの指摘もあった。そこで劉宋の文帝(424年 - 453年)の命を受けた裴松之(372年 - 451年)は、429年(元嘉6年)にそれまでに流布していた三国時代を扱う史書を多く集め、それらの記事を『三国志』の注釈として挿入した。これらは「裴松之注(略して裴注)」と呼ばれ、今日『三国志』は裴注も挿入された形で刊行されることが普通である。裴松之は陳寿の『三国志』を「近世の嘉史」と賞賛しており、原文を尊重した上で主観を廃し、陳寿の本文と同じ事件を扱っている他の史料を注釈として併記し、論評を加えることで、読者に是非の判断をゆだねる形式をとっており、後世の研究者にとっては非常に役立つ注となっている。裴松之が参照・挿入した文献は210種にもおよび、高官が編纂した史書もあれば、噂レベルの雑説を拾った逸話集もあるなど玉石混淆である。この結果、裴注の分量は本文の文字量に匹敵するほどになっている。たとえば蜀書趙雲伝は、陳寿の元の記述ではわずか246文字しかないが、趙雲伝につけられた裴注の『趙雲別伝』は1096字と4倍の分量となっている。この別伝という史伝形式は、当時貴族の子弟が初官として就任する著作郎という職に対し、課題として執筆が命じられたもので信憑性は著しく低い。しかしこのような書も参照が容易となったことで、後世の趙雲像に影響を与えていくこととなる。なお、裴松之は、その引用先の信憑の度合いをランク付けする配慮を行なっており、この点でも読者の判断を尊重する方針を採っている。 三国時代終結から150年後に生きた裴松之には、陳寿が置かれていた立場上の制約も無かったため、必ずしも魏を正統とする史料ばかりでなく、呉・蜀の立場から書かれた史書も多く引用している。たとえば裴注に多く引かれる習鑿歯の『漢晋春秋』は、後漢-蜀漢-晋の流れを正統としており、陳寿の正史とは立場を異にしている。習鑿歯は「周瑜・魯粛を卑しめて諸葛亮を評価する論」(『太平御覧』)を述べ、劉備・諸葛亮の正統性を高らかに宣言した人物である。 このように裴注は、陳寿が採用できなかった逸話や、史実とは思われない噂話までも多く引用しており、それらが後に講談や雑劇の筋を作る上で、格好の素材となっていく。
※この「裴松之注」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「裴松之注」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。
- 裴松之注のページへのリンク