裴鏡民碑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 08:24 UTC 版)
正式には『益州刺史裴鏡民碑』という。建碑は貞観11年(637年)。裴鏡民は北周の裴漢の子。『隋書』に裴鏡民の名を見ないが、碑文によると、字は君倩で、初めは北周、ついで隋に仕え、晩年、西南道行台兵部侍郎・益州総管府司馬となった。開皇16年(596年)、西南夷の追討に総司令官として向かったとき、陣没したといわれている。没後42年目に聞喜県に在った裴氏の祠堂に建てられたのがこの碑である。 撰文は李百薬で、書は字画精妙で欧陽詢・虞世南に劣らず、やや虞世南に近い楷書である。字大は、3cm弱。
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