『周瑜伝』に引く裴松之注『江表伝』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/06 03:09 UTC 版)
「秦松」の記事における「『周瑜伝』に引く裴松之注『江表伝』」の解説
建安7年(202年)、曹操が孫権に息子を人質として差し出すよう要求してきた。群臣たちを一堂に会して議論をさせたところ、張昭・秦松らは逡巡して態度をはっきりさせなかった。孫権は内心人質を送りたくないと考えていたため、周瑜一人を連れて母の呉夫人の元へ赴き、周瑜の意見を仰いだ。すると周瑜が反対したため、結局人質を送らなかった。 また、孫権は赤壁の戦いに際し開戦を決めた時、周瑜に対し「張昭・秦松は、妻子を顧みて個人的な事情を配慮し、私に降伏を勧めるばかりで全く期待に応えてくれない」と嘆いている。
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