ヴァルテリーナ計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ヴァルテリーナ計画」の解説
詳細は「イタリア戦線における連合軍の最終攻勢(英語版)」、「イタリア国民解放委員会(CLN)(英語版)」、および「イタリア北部決起委員会(CLNAI)(英語版)」を参照 1945年1月、攻勢終了によって再び防戦へと戻り、厳しい冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵を含めた兵士達はムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるとゴシックラインは完全に突破され、C軍集団とRSI軍はポー川ラインにまで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線のスターリングラードにしなければならない」と演説しているが、同時に市民を巻き込む戦闘をこれ以上は続けるべきではないとの思いもあり、以前から準備していた「Z条件」の発動を検討するようになった。 民衆に被害を出さず、効果的な最終戦闘を行うという点で「Z条件」は望ましい計画ではあったが、実現する上で大きな障害があった。一つはまず指揮系統の問題であり、義勇軍、黒色旅団、国家防衛軍、共和国国防軍などのRSI軍各部隊は基本的にドイツ軍のC軍集団司令部の戦闘序列に組み込まれており、単独での防衛線構築は不可能だった。そのC軍集団は当面は前線での遅滞戦闘を継続する意思を示し、更にはRSI政府はおろか本国政府やヒトラーにすら秘匿して連合軍やパルチザン及びレジスタンス勢力との休戦交渉を進めていた。 次に連合軍が治安維持を兼ねてパルチザンやレジスタンスを野放しにしており、連合軍が撤収した後の町でRSI政府の支持者に報復的な虐殺を繰り広げていることであった。特に反政府運動で最大規模を誇る共産主義勢力は「スターリンのイタリア人」と呼ばれたイタリア共産党書記長トリアッティの指導下にあり、RSI関係者への無差別テロを繰り広げていた。連合軍、CLN、ボノーミ政権はソ連の傀儡として警戒感を抱きつつも、対北伊での反乱を指導していたトリアッティ派のイタリア北部決起委員会(CLNAI)と協力関係を結び、武器支援の対象としている。ムッソリーニは防衛拠点を手放す際、家族を守ることを希望する兵士には除隊を許可し、或いは家族を連れての後退を許可していた。大都市ミラノを捨てて僻地のヴァルテリーナへ移動するとなれば、家族との移動は兵站上は不可能であり、大勢の兵士達にパルチザンの報復から家族を見捨てることを命じるより他になかった。 ムッソリーニはCLN及びCLNAIとの交渉によってZ条件の実現を試み、RSI政府に協力を申し出た非ファシスト系の政治家達を通じて交渉を行っている。1945年4月21日、中部の要衝ボローニャが陥落、ドイツでもベルリンの戦いが始まる状況下でイタリア戦線の独軍は明らかに士気を失っており、戦線は急速に後退した。ゴシックラインは事実上崩壊し、独軍はイタリア戦線から敗走しつつあった。 1945年4月22日、CLNとRSI政府の交渉が開始され、ムッソリーニは統治権を南部の共同交戦国とCLNに委譲し、また実効支配地域でのレジスタンスに対する戦闘や報復行為を行わないことを約束した。その上でムッソリーニは連合軍との戦闘継続だけを望み、CLNにRSI軍のヴァルテリーナ移動を少なくとも妨害しないことを求め、また他の地域で見られるRSI関係者やその家族への報復を直ちに停止するように要請した。非人道的な報復については連合軍も度々取り止めるようCLNに厳命していた為、表面的には了承した。またRSI軍の正規軍はもちろん、黒色旅団などの治安組織・義勇軍組織も国際法上の捕虜として公正な扱いを受けるとの連合軍からの通達を伝えたが、現実にはそのどちらも遵守されることはなかった。 1945年4月25日、CLNの代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後にヒトラーから裏切られたと感じた。しかし二日後に総統地下壕のヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から欺かれていることを知った。
※この「ヴァルテリーナ計画」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「ヴァルテリーナ計画」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。
- ヴァルテリーナ計画のページへのリンク