レース経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 10:12 UTC 版)
「1955年のル・マン24時間レース」の記事における「レース経過」の解説
6月11日午後4時、恒例のル・マン式スタートでレースは始まった。フェラーリのエース、エウジェニオ・カステロッティが好スタートを切り、ジャガーのエース、マイク・ホーソーンが続いた。メルセデスのファンジオはマシンに乗り込む際ズボンをシフトレバーに引っ掛けるという失態で14位と出遅れたが、すぐさま3位に浮上した。ホーソーンとファンジオはカステロッティを抜き、前年の最速ラップ記録を更新するハイペースでトップ争いを続けた。2時間経過後はホーソーン、ファンジオから遅れて、カステロッティ、ウンベルト・マリオーリ(フェラーリ)、カール・クリング(メルセデス)、ピエール・ルヴェー(メルセデス)という順位。2時間半に近づき、各車とも最初のピットストップ(燃料補給・ドライバー交代)の時間を迎えた。まずフェラーリ勢がピットインし、ジャガー、メルセデス両陣営からもピットインの指示が出された。 午後6時28分、ホーソーンはピット手前で周回遅れのランス・マックリン(オースチンヒーレー・100S)を追い抜きざま、ピットインのため減速した。マックリンが走行ラインを乱したところにルヴェーのメルセデスが追突して宙を舞い、観客席のそばに落下して爆発した。マシンから引きちぎれた部品が砲弾のようにグランドスタンドに飛び込み、観客を次々となぎ倒した。辛うじて多重事故は起きなかったが、スタンドは死傷者の救助活動と逃げ惑う人々で騒然とし、爆心地のような惨状を呈した。 大会主催者のフランス西部自動車クラブはレースを中止すると帰路につく観客で周辺道路が渋滞し、救急車の運行が困難になると判断してレースの続行を決めた(場内で事故のアナウンスがされたのは深夜になってからだった)。事故に絡んだジャガー、メルセデス両陣営とも、レースから降りると過失を認めたと思われかねないと判断して走行を続けた。 その後フェラーリ勢が故障で消え、日付が12日に変わる頃、ファンジオ/モス組のメルセデスはホーソーン/アイヴァー・ビューブ組のジャガーに2周の差をつけてトップを守り、僅差の3位にもメルセデスが付けていた。しかし、ダイムラー・ベンツ本社は世論への影響を考慮してレース中止を指示。チームは午前1時45分に2台のマシンを呼び戻し、「多くの観客を死傷せしめた責任を取り、僚友ルヴェー及び多くの死者に哀悼の意を表する」との声明を残して本国に帰還した。メルセデスはジャガー陣営にも自主リタイアをうながしたが、ジャガーのロフティ・イングランド監督はこれに応じなかった。 これでホーソーン/ビューブ組の首位は安泰となり、24時間目の12日午後4時に優勝のチェッカーフラッグを受けた。大事故があり終盤は雨中のレースとなったが、優勝者の走行距離4,135.380kmと平均速度172.308km/hは大会新記録であった。2位はマセラティとの接戦を制したアストンマーティン、3位はジャガーのプライベーターチーム、エキュリー・フランコルシャンという結果となった。1.5リットルエンジンのポルシェは4位から6位を占める健闘をみせた。
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