レド公路の建設計画とは? わかりやすく解説

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レド公路の建設計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)

インパール作戦」の記事における「レド公路の建設計画」の解説

その後議論はわずか数カ月の間に紆余曲折たどったテヘラン会談後の議論焦点スマトラでの作戦戻ったマウントバッテン1944年1月新戦略考案し、それはマクシオムと呼称された。それは(南西太平洋で対日反攻指揮していた)マッカーサー援護であり、ビルマでの攻勢ではなくチャーチル支持するスマトラ作戦と同じ方向性のもので、ビルマ戦線集積した軍事的資源転用する内容だった。ただし、マウントバッテンスマトラでの作戦には洋上艦隊支援にしか頼ることが出来ないことを理由として、敵陸上戦力の5倍の兵力要求したチャーチルはこの要求過大であると考えアメリカ太平洋で実施した島嶼上陸事例挙げて反論したまた、どの作戦実施するにせよ、シンガポール駐留する日本艦隊連合艦隊主力加わった場合など、出方次第ではインド洋方面からの攻勢必要な海軍戦力大幅に増強迫られるため、この点もネックになったまた、米国1943年昭和18年以来B-29による中国からの日本本土戦略爆撃計画執着しており、援蔣ルート増強求めレド公路建設作戦燃料パイプライン建設計画立てた。これらの建設には毎月26,000トン資材43,000人の人員を必要とした。インド北東部での準備インド司令部後援により1943年11月開始されたが、本格的な着工には米国熟練した土木労働者が必要であり、1944年昭和19年1月開始であった米軍求め応じ最初の計画では、1944年昭和19年11月までに昆明まで一方通行1945年3月までには両面通行可能なものとするとされ、パイプライン1944年11月までには完成して1945年昭和20年7月までに全能力を発揮可能なレベル整備されることになっていた。しかし、東南アジア作戦規模縮小決定されたことと予期しない工事遅延により、昆明までの公路完成予定一方通行1946年昭和21年1月両面通行1946年昭和21年6月とされた。なお、公路での輸送力一方通行毎月8,000トン両面通行20,000 - 30,000トン見積もられていた。パイプライン1946年昭和21年4月より送油開始して10月全能力に達するとされ、その量は開始13,000トン全能力で63,000トン見積もられた。このような遅延あっては実用上の役には立たないため、マウントバッテン空輸強化勧告した公路建設中止すれば、ビルマ北部広大な領域奪回する必要性無くなるという計算もあった。

※この「レド公路の建設計画」の解説は、「インパール作戦」の解説の一部です。
「レド公路の建設計画」を含む「インパール作戦」の記事については、「インパール作戦」の概要を参照ください。

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