ルドルフ1世との戦い
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「オタカル2世 (ボヘミア王)」の記事における「ルドルフ1世との戦い」の解説
大空位時代を迎えた神聖ローマ帝国において、オタカルはドイツ王の選挙に積極的に関与し、中心的な役割を果たした。まもなく七選帝侯によってドイツ王が選出される体制が確立されるが、選帝侯の中にボヘミア王が含まれていたのはオタカルの活躍に帰する点が大きいと考えられている。1262年には皇帝候補の一人コーンウォール伯リチャードにバーベンベルク家の所領を授封するが、これは当時の法慣例から外れた行為だった。 オタカルは懐妊が期待できないマルガレーテとの結婚を解消し、ハンガリーの王女クニグンデ(クンフタ)と再婚した。オーストリアの貴族は自己の権利の強化を求め、またボヘミア人やモラヴィア人がオーストリア、特にシュタイアーマルクの要職を占めている状況に不満を抱いていた。1265年にオタカルはオーストリアの混乱期に無許可で建てられた城壁を破壊する。オタカルはオーストリアの貴族がズデーテン地方の貴族と同盟していると見なして彼らに攻撃を加え、1268年に多数のシュタイアーマルクの貴族を逮捕した。1272年にオタカルはフリウリ総督に就任し、ボヘミア王国はズデーテンからアドリア海に広がる支配権を有するようになる。 1273年にフランクフルトでドイツ王選挙が開かれるが、会議の場にオタカルの姿は無かった。野心的なオタカルを忌避する他の諸侯はハプスブルク家のルドルフ1世をドイツ王に選ぶが、オタカルはルドルフの選出に強く反対し、ルドルフ1世を「貧乏伯」と小ばかにした。 ルドルフ1世はオタカルの領土拡大を不法なものだと非難し、ライン宮中伯ルートヴィヒは、オタカルに世襲地であるボヘミア、モラヴィアの受領、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテンの帝国への返還を求める訴えを起こした。ニュルンベルクでの帝国裁判への出廷の拒否、領土の授封の申請を怠ったことを理由として、1274年11月にオタカルは帝国追放処分を下される。さらに1276年6月には重追放処分が下され、これまでオタカルを支持していたオーストリアの貴族もルドルフの側に傾き始める。また、教皇庁の態度、托鉢修道士による宣伝は民衆の感情を反オタカルの側に揺り動かしたが、オタカルは反対派の行動に厳罰をもって対抗する。 ドイツ国王軍と同盟軍がオーストリアに進軍すると、オーストリアの貴族と都市の大部分は降伏し、オタカルは不戦降伏を決意する。オタカルはルドルフ1世にオーストリアとエーガーの放棄を約束し、ボヘミアとモラヴィアの授封を承認した。しかし、依然多くの支持者を擁するオタカルは領地の引渡しを拒否し、ニーダーバイエルンのハインリヒらの貴族、一部のウィーン市民はルドルフ1世に反抗した。また、オタカルの降伏とともにプシェミスル家とハプスブルク家の婚姻が計画されていたが、帝国追放令が解除された後に婚姻の計画はオタカルによって破棄される。オタカルとルドルフは双方とも軍隊を召集し、オタカルの元にはボヘミア、モラヴィアだけでなくブランデンブルク、シレジア、テューリンゲンポーランドからの軍勢も加わった。 1278年8月26日にオーストリア東部でボヘミア軍とドイツ軍が交戦するが、ルドルフ1世の配置した伏兵によってボヘミア軍は敗北する(マルヒフェルトの戦い)。敗走中、オタカルはかつて処刑したマーレンベルク家の郎党と思われる人間に捕らえられ、撲殺された。戦後、オタカルの娘アネシュカ(アグネス)とルドルフ1世の子ルドルフ、息子ヴァーツラフとルドルフ1世の娘グータ(ユッタ)の結婚が取り決められた。
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