リゾート開発の経緯からアルファ・コーポレーションの自己破産まで
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過疎化が進んでいた占冠村の振興策として北海道開発庁がトマム山開発の必要性を提言。1981年(昭和56年)に鉄道弘済会北海道支部長が座長となって「石勝高原総合レクリエーション施設開発協議会」を結成し、第三セクター方式でのリゾート開発が決定した。民間企業には、以前からこの地域の開発に関心を持っていた「ホテルアルファ」(仙台に本拠を置く関兵精麦の子会社)が参加した。同年10月には石勝線が開通して石勝高原駅(現在のトマム駅)が開業した。1982年(昭和57年)に「シムカップ・リゾート開発公社」(出資比率は占冠村51 %、ホテルアルファ28.6 %、関兵精麦20.4 %)を設立、スキー場関係の開発を公社が行い、ホテルやレストランなどの開発をホテルアルファが行った。1983年(昭和58年)にスキー場、リゾートセンター、ホテルがオープンし、「アルファリゾート・トマム」が開業した。 1984年(昭和59年)にはアルファリゾート・トマムの新たな開発計画を策定し、宿泊施設、ゴルフ場、野球場、屋内体育館、インドアウォーターパーク、ショッピングモール、キャンプ場、国際会議場、ヘリポートなどが盛り込まれた総投資額2,000億円、総面積5,000 haにも及ぶ山岳リゾートを創造する計画であった。これらの収益源として見込まれていたのがリゾート会員権の販売であった。日本国有鉄道(国鉄)と協力して特別仕様の専用列車(アルファコンチネンタルエクスプレス)を運行させるなどアクセス向上にも努め、スキーシーズンには臨時寝台特急「北斗星トマムスキー号」も運行した。1985年(昭和60年)には分譲方式のコンドミニアム(ザ・ビレッジアルファ)が完成、1986年(昭和61年)に18ホールのゴルフ場を造成、1987年(昭和62年)と1989年(平成元年)には山岳地帯としては例のない超高層ホテル(ザ・タワーI/II)がオープンした。1990年(平成2年)までにスキー場も18コース(ゴンドラ1基、リフト10基)を有する施設に拡大した。 アルファリゾート・トマムは関兵馬がオーナーの関兵精麦が施設を所有し、次男の関光策が社長のホテルアルファが運営する体制であったが、1989年(平成元年)に関光策が別会社の「アルファ・コーポレーション」を設立し、アルファリゾート・トマム敷地内で新たな宿泊施設やレジャー施設の開発を単独で始めた。1991年(平成3年)から1992年(平成4年)にかけてホテル(ガレリア・タワースイートホテル2棟、ヴィラ・マルシェ・ホテルアビチ、ヴィラ・スポルト2棟)が次々とオープンした。 ところが、時代はすでにバブル崩壊を迎えており、資産デフレが起こる状況であった。1994年(平成6年)の暮れにアルファ・コーポレーションは長期借入金返済に関して資金難に陥り、金融機関に債権の利息支払い猶予を仰ぐ事態となった。この時すでに経営破綻しかねない財務状況であったが、関光策がホテルアルファ社長にもなっていたことから、関兵精麦が所有する施設を運営しているホテルアルファからさらにアルファ・コーポレーションへ運営委託して経営支援するなどの対策をした。1997年(平成9年)、関兵馬死去後に社長となった四男の関和治は、経営が悪化していたホテルアルファの自社所有施設の運営を加森観光子会社の「リゾートマネジメント」へ委託し、これに反対した関光策社長をホテルアルファの臨時株主総会で解任し、関和治自らが社長に就任した。さらに、この年は北海道拓殖銀行が経営破綻してアルファ・コーポレーションの資金不足に追い打ちをかけた。そして、1998年(平成10年)にアルファ・コーポレーションは負債総額1,061億円を抱えて自己破産。同時に、会員権などを販売していたアルファ・ホームも負債総額122億円を抱えて自己破産した。
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