楊洪
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劉璋に仕えて諸郡の役人を務める。劉備が益州を支配すると犍為太守李厳は楊洪を功曹に任命した。李厳は郡役所を移転させたいと考えたが、楊洪は官職を返上してでも反対だと主張したので、李厳は彼を州に推薦した。楊洪は蜀部従事(蜀郡従事?)に任命された。 漢中領有をめぐって曹操との争いが起こると、前線の劉備は軍勢を派遣するよう本国の諸葛亮に要請した。楊洪は「漢中は益州の運命を握る要衝です。増援にためらうべきではありません」と言った。諸葛亮は法正が不在のあいだ彼に蜀郡太守を代行させたが、見事に職務をこなしたので正式に太守となり、のち益州治中従事に転任した。 劉備が東征に失敗して白帝城で危篤に陥ると、諸葛亮が見舞いのため首都を空けたが、漢嘉太守黄元は諸葛亮に嫌われていたので叛乱を起こした。楊洪は皇太子劉禅に言上し、将軍を派遣して鎮圧に当たらせた。人々は黄元が作戦に失敗して南方に根を張るだろうと言い合ったが、楊洪は「黄元は兇暴なので南方の人々が迎え入れるはずがない。鎮圧軍が南安峡を封鎖すれば手もなく逮捕できるだろう」と語り、はたしてその通りとなった。劉禅が帝位に上ると蜀郡太守・忠節将軍となり、関内侯に叙爵された。のち越騎校尉に任じられた。 若いころ張裔と親しかったが、その子張郁の過失を擁護しなかったので張裔は楊洪を恨んだ。建興五年(二二七)、諸葛亮は漢中に進駐すると張裔を留府長史に任じようとしたが、楊洪は反対して向朗を推薦した。人々は楊洪自身が留府長史になりたがって張裔の邪魔をしたものと思い、張裔も彼を憎んだ。のちに張裔は司塩校尉岑述と仲違いした。こうして人々は楊洪には私心がなく、ただ張裔の逆恨みであると考えるようになった。 楊洪はもともと学問を好まなかったが、忠義・清潔さ・誠実さ・明晰な頭脳を兼ね備え、国のことを自分のことのように心配した。また継母に仕えて孝行を尽した。建興六年(二二八)、在任中に亡くなった。 【参照】黄元 / 諸葛亮 / 向朗 / 岑述 / 曹操 / 張郁 / 張裔 / 法正 / 李厳 / 劉璋 / 劉禅 / 劉備 / 益州 / 漢嘉郡 / 漢中郡 / 犍為郡 / 蜀郡 / 南安峡 / 白帝県 / 武陽県 / 越騎校尉 / 関内侯 / 功曹 / 司塩校尉 / 太守 / 治中従事 / 忠節将軍 / 部郡国従事(蜀郡従事) / 留府長史 |
姚貢
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もと甘陵国の相であった。初平元年(一九〇)に挙兵して山東諸将の盟主となった勃海太守袁紹は、貪欲な気持ちを起こして姚貢や上谷太守高焉に金銭を要求した。姚貢らは金額を揃えられずに出奔した《公孫瓚伝・後漢書同伝》。 |
楊弘
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袁術の死後、張勲らとともに袁術の軍勢を連れて孫策に身を寄せようとしたが、廬江太守劉勲に襲撃され、身柄を拘束された《討逆伝》。 このほか袁胤・黄猗らが袁術の棺をかついで劉勲を頼ったとあるが、孫策を頼ろうとしたとも劉勲に襲われたとも記さず、単に劉勲に身を寄せたとあるだけである。楊弘らとは別行動を取っていたのだろうか。 |
楊昂
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張魯の将。 おそらく楊帛と同人である。紙に書かれた名を写し間違えたものと考えられる。 建安十八年(二一三)正月、馬超が蛮兵を率いて涼州諸郡を攻撃しとき、張魯は楊昂を派遣して彼に助勢させた。郡県のほとんどが呼応し、ただ冀城だけが残っていた。八月、涼州刺史韋康は楊阜の諫めを聞き入れず、馬超に使者をやって降服した。楊昂は韋康を漢陽太守とともに殺害した《楊阜伝》。 二十年七月、曹操の大軍が陽平関に押し寄せると、張魯の弟張衛は独断で兵を出し、楊昂とともに陽平関を守った。曹操軍はこれを攻撃したが多くの死傷者を出し、食糧も底を突いたので引き揚げようとしたが、高祚らの部隊が誤って張衛陣営に迷い込み、張衛は敵の奇襲だと思って敗走した《武帝紀・張魯伝》。 【参照】韋康 / 高祚 / 曹操 / 張衛 / 張魯 / 馬超 / 楊阜 / 漢陽郡 / 冀県 / 陽平関 / 涼州 / 刺史 / 太守 |
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