モルガンの米国預託証券
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 10:15 UTC 版)
「ビッグバン (金融市場)」の記事における「モルガンの米国預託証券」の解説
「1908年ルール」が一定の歯止めとなり、第一次世界大戦の戦後処理が欧州金融を長く停滞させたこともあって、1920-30年代のイギリスにおける証券取引は個人投資家中心であった。この間1927年モルガン・ギャランティ・トラスト(現JPモルガン・チェース)が米国預託証券を考案した。現物の移動を省くモルガンの名案によってロンドン市場の機関化が鮮明化するのは第二次世界大戦後である。保険会社の資産は1938年の17.4億ポンドから1958年には59.9億ポンドに増加した。1938年ほとんど資産がなかった年金基金は1958年25億ポンドに達した。そして1963年の英国株における機関投資家の保有する割合は27.8%に及んだ。1960年ごろの米国預託証券市場において、モルガン・ギャランティ・トラストは上場する171銘柄のうち79銘柄の受託銀行であった。 1952年、アメリカ復興金融公庫への対外債務を返済したイギリスは担保を処分して巨額のUSドルを得た。1953年、ウィンストン・チャーチル内閣は国有産業を民営化してさらなる資金を捻出した。資金はセカンダリー・バンキングに投下された。 セカンダリー・バンキングはマーチャント・バンク(Merchant bank)がロンドンで始めた事業である。当初は手形割引を営んでいたが、1960年代からは市場と業態に特徴が現れた。世界中の大銀行がその市場に参加して、協定そっちのけで競争した。すぐに業態は競争に適応した。大口で、主に外貨建ての預金を受け入れ、一流の多国籍企業に貸し出した。こうしたホール・セールは70%がイギリス海外居住者向けであり、セカンダリー・バンキングは伝統的な貿易金融と外国への直接投資に邁進したのである。ローンは専らオーダーメイドされた。すなわち、ローンを組んでからコールマネーをあてにして資金を調達したのである。 競争の結果は1950年代末に早くも出ていた。西ドイツではドイツ連邦銀行の設立をめぐり英米が対立しながら(欧州中央銀行#州立銀行の過去)、それぞれ資金を投下して経済の奇跡を生んだ。カナダやオーストラリアの鉱業にも巨額が投入された。代わりにトルコやインドでは瞬く間に外貨準備が減っていったり、またロイズ銀行が南北問題に初めて言及したりした。 チャーチルの民営化に応じた機関投資家もセカンダリー・バンキングへ資金を供給して競争を煽った。シャルル・ド・ゴールの金融勢力が大規模に再編され、スエズ金融が王室からモルガンへ傾いた。1968年、モルガン・ギャランティ・トラストがユーロクリアを設立して、機関投資家をロンドン市場にけしかけた。翌1969年、シティのマーチャント・バンクがフォレスタルを売却した。 1973年、引受商社(Accepting House)17社で構成される委員会について、彼らへ資本参加することを禁ずる未公開のルールをイングランド銀行が解除すると発表したが、引受商社は全て大手マーチャント・バンクであった。そしてセカンダリー・バンキング危機が起こった(Secondary banking crisis)。シティはオイルショックにも直面した。
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