モルガンの全盛期
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「モハメド・サイド・ヘルシ・モルガン」の記事における「モルガンの全盛期」の解説
結果としてソマリ愛国運動からジェスが抜ける形となり、モルガンはソマリ愛国運動の代表格となった。モルガンはケニアからの支援を受けることに成功したといわれる。モルガンはケニアとソマリアにまたがる町エルワクを拠点として、1992年10月にゲド州のバルデラ、中部ジュバ州の都市サーコウ(英語版)、ブアレ、下部ジュバ州のアフマドゥなどを支配下に置いた。 モルガンは続いてキスマヨ攻略を試みたが、ソマリア内乱を憂慮した国際連合安全保障理事会はソマリアへの武力介入を決意し、12月にアメリカ軍主体の統一タスクフォース(英語版) (UNITAF) が結成された。UNITAFは作戦の一環として、キスマヨに進駐した。ただしジェスによるキスマヨ支配は引き続き認めた。 1993年1月8日、モルガンは国連主催でエチオピアのアディスアベバで開かれた国民和解に関する非公式準備会議(英語版)に参加し、ソマリア内戦終結の決議に署名した。それにも関わらず、同じ1月にモルガンはキスマヨに攻撃をしかけ、米軍に撃退されている。 さらに2月22日、モルガンの部隊の一部がキスマヨへの潜入に成功し、それをきっかけにジェスの部隊を追放してキスマヨ占領に成功した。ただしモルガン自身はキスマヨには入らなかった。この時の国連は、第一次国際連合ソマリア活動 (UNISOM) を開始してキスマヨにはベルギー軍を駐留させていたが、キスマヨの支配権がジェスからモルガンに切り替わることに対してなぜか介入しなかった。もっとも、キスマヨでは在住の長老達の意向が強く、モルガン占領後も必ずしもモルガンの権威は十分ではなかった。また、UNISOMでもモルガンを信用していない意見が強く、キスマヨの実権が誰にあるのか不明確な時期が続いた。とはいえ、モルガンは重要都市キスマヨを含むソマリア南部の多くの都市を占拠しており、この時がモルガンの絶頂期だった。 モルガンはアディスアベバで1993年3月に開かれたソマリアにおける国民和解に関する会議(英語版)にもマレハン軍閥SNF代表として参加して、会議の停戦決議に同意したが、この決議は実質を伴わなかった。もっとも、そもそもモルガンはマレハン氏族ではなく、モルガンのSNFでの影響力はそれほどでもなかった。この会議には、SPMを抜けたはずのジェスもSPM代表の一人として招かれている。ソマリア南部の情勢が最も不明確な時期だった。 1998年7月、ハルティ氏族はソマリア北東部をプントランドと名付けて独立宣言した。それに合わせるようにして、1998年9月3日、モルガンはソマリア南部をジュバランドと名付けて独立宣言した。もっとも、ソマリア南部は群雄割拠の状態で、モルガンの支配地域も戦闘により増えたり減ったりしていた。 1998年11月、マレハン氏族の軍閥SNFがモルガンの支配地域に侵入して戦闘となった。同じ11月にケニアのナイロビで行われた和平交渉で、両者の戦闘は停止した。 1999年3月、ジブチでソマリア再統一を目的としたジブチ会議が行われ、モルガンは会議には参加したものの、決議には賛成しなかった。
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