州立銀行の過去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:42 UTC 版)
連合軍軍政期のドイツにおいて、フランスとソ連が四区にまたがる中央銀行の設立に反対した。そこでアメリカが第三次ドッジプランにおいて州中央銀行委員会(Länder Central Bank Commission)の設置を提案したが、それさえ決裂したのでイギリスと協議した。しかし、ドイツの金融制度をライヒスバンクと切り離そうとするアメリカと、接続させようとするイギリスは鋭く対立することになった。一応イギリスは譲歩の姿勢を示したが、相応の条件をつけた。イギリスの占領地域ではルール地方の石炭・鉄鋼業を再建する目的で補助金を支出しており、これが大きな財政負担となっていた。地方財政から補助金を交付するとき、ハンブルク営業本部は決定的なリファイナンス機関となった。それで要するに、英米地区全体を管轄する中央銀行の設立を認めてやるから財政負担をアメリカでも融通してくれというのであった。 分権的制度を志向していたクレイ将軍(Lucius D. Clay)であったが、1948年1月に全ての州中央銀行が出資してフランクフルトの「州連合銀行」を創設することに合意した。イギリスは同年2月にハンブルク営業本部の廃止と銀行分権化を決め、管轄区の各州に州中央銀行を設立した。3月に「州連合銀行」はドイチェ・レンダー銀行(英語版)と命名された。やがてフランス地区の三州各中央銀行も3月25日に遡及しドイチェ・レンダー銀行の傘下となった。 ドイチェ・レンダー銀行は多忙であった。唯一の発券銀行であり、州中央銀行の決済・再割引、裁定準備金の預託を行う清算機関であった。ドイチェ・レンダー銀行は連邦準備制度と異なる仕組みであった。イギリスの要望で日常運営にあたる役員会(Direktorium)がおかれ、アメリカの要望では独立性を担保する機関(Zentralbankrat)がおかれた。この理事会は、役員会総裁と理事会議長と11州の州中央銀行総裁から構成された。役員会とイギリス地区州中央銀行総裁はライヒスバンク出身者から選ばれた。逆にアメリカ地区では忌避された。西ドイツのドイチェ・レンダー銀行は、6月の通貨改革に先立ち公定歩合を5%に設定したときの運営ぶりで、完全な集権体制の確立を示した。 1957年、イングランド銀行がポンド危機や交換性喪失にあえぐ中、ドイツ連邦銀行に権限が委譲された。マルクの通貨価値を安定させる目的であった。こうしなければ、各州の財政に振り回された運営が行われてインフレを招くだろうとみられていたのである。 欧州中央銀行および欧州中央銀行制度の主たる目的も、ユーロ圏における物価の安定であり、たとえばインフレーション率を低く抑えるというものが挙げられ、現在の目標水準は2%程度としている。 物価安定の目的を妨げない限りにおいては欧州連合の経済政策を支援するという目的もある。欧州連合条約第3条以下には欧州連合の政策について、高い水準での雇用の創出とインフレーションによらない経済成長の維持がうたわれている。
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