ミドハト憲法と第一議会
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「タンジマート」の記事における「ミドハト憲法と第一議会」の解説
詳細は「オスマン帝国憲法」を参照 1869年にフアト・パシャ、1871年にアーリ・パシャがあいついで没すると、改革の流れはふたたび滞るようになった。しかし、上述のようなシャリーアとヨーロッパ近代法を均衡させるための努力は継続し、1868年、法律案の起草をおもな任務とする機関として、フランスのコンセイユ・デタ(Conseil d'État、フランス国務院)を手本にダヌシュタイ(英語版)(Danıştay)が設立された。1870年に着手され、1876年に完成した『メジェッレ(英語版)』(民法典)はその結実であり、近代法の一部としてのシャリーアの成文化の端緒となった。その編纂には司法相アフメト・ジェヴデト・パシャ(英語版)らがたずさわった。 しかし、相次ぐ戦争の遂行と「上からの改革」はヨーロッパ列強からの多額の借款を必要とし、さらに貿易拡大によってオスマン経済そのものが西欧諸国への原材料供給源としてのそれに変質したため、農業のモノカルチャー化が進行して、オスマン帝国の半植民地化を促した。この結果、ヨーロッパ経済の動向と農産品収穫量の影響を強く受けるようになり、1875年、西欧金融恐慌と農産物の不作の影響を受けたオスマン帝国は外債の利子支払い不能を宣言して、事実上の破産をきたした。 こうしてタンジマートは財政や経済の面では抜本的な改革をおこなうことができず、むしろ挫折に終わったことが露呈した。1861年よりスルタンの位置にあったアブデュルアズィズの浪費と専制に対し、「新オスマン人(英語版)」と呼ばれる若い知識人を中心に反専制運動が起こり、1870年頃からは、都市部では保守的な神学生までアブデュルアズィズ退位を求めるデモに参加するほどであった。アブデュルアズィズは、1876年5月30日、改革派の支持を背景にしたクーデターの結果、憲政樹立をめざすミドハト・パシャらによって廃位された。かわって甥で開明派のムラト5世が即位したが、廃位ののち幽閉され、同年9月に死去した。アブデュルアズィズは6月に自殺し、8月31日、新しいスルタンとしてアブデュルハミト2世が即位した。 アブデュルアズィズによって左遷させられていたミドハト・パシャは「新オスマン人」運動のリーダーとみなされ、ムラト5世即位と同時に国家評議会議長に返り咲き、アブデュルハミト2世即位後は新帝の勅令に基づいて設立された制憲委員会の委員長に就任した。ミドハト・パシャは反専制運動の指導者ナムク・ケマル(英語版)らとともに憲法草案の作成に取りかかり、12月17日には大宰相に任じられた。しかし、スルタンとなったアブデュルハミト2世は責任内閣制など自身の帝権に制限を加えるような条項については反対し、その一方でスルタンが国家の安全を脅かすと判断された人物を追放処分にする権利をもつという内容の条文を挿し入れることを主張した。これについては、ナムク・ケマルの反対があったにもかかわらず、憲法発布をいそぐミドハト・パシャはこれに妥協、アブデュルハミト2世の修正を組み入れて1876年12月23日、全119条からなる帝国初の憲法、オスマン帝国憲法(通称, ミドハト憲法)を公布した。ミドハト・パシャは、第一次立憲制最初の大宰相となった。 憲法はオスマン帝国が西欧型の法治国家であることを宣言し、帝国議会の設置、ムスリムと非ムスリムのオスマン臣民としての完全な平等を定めた。この憲法は、1875年のフランス共和国憲法、1831年のベルギー憲法に倣い、さらに、イギリスの憲法も参照して制定された自由主義的な立憲君主制憲法であり、他のアジア諸国にさきがけて国会開設を定めるなど画期的な内容をもつものであった。翌1877年3月19日には議会も招集された。しかし、議会が政府高官の汚職や特権的金融業者とスルタンとの癒着などを糾弾しはじめると、アブデュルハミト2世は1878年2月14日、憲法を停止して議会の閉鎖を命じ、以後、30年におよぶ史上名だたる専制政治を開始した。
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