ホット・スタッフ【ホット スタッフ】(観賞樹)
ホット・スタッフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 22:54 UTC 版)
ホット・スタッフ、ホットスタッフ
hot stuff
一般
- 並外れた
- セクシーな
- わいせつ物(エロ本、アダルトビデオなど)
- 盗品
音楽
- ホット・スタッフ - ドナ・サマーのシングル曲。
- HOT STUFF - シェリー・サベッジのシングル曲。テレビアニメ『キャッツ♥アイ』後期エンディングテーマ。
- Hot Stuff - JUJUのシングル。Door/Hot Stuffに収録されている。
- Hot Stuff (倖田來未の曲) - 倖田來未のシングル。KM-MARKITとのコラボ曲。
- e-radio HotStuff - e-radioのヘヴィー・ローテーション。
架空の人物
- ホット・スタッフ・ザ・リトル・デビル - 1957年にハーヴェイ・コミックが生み出したアメリカン・コミックスのキャラクター。
組織
- ホットスタッフ・プロモーション - 東京都目黒区に本社を置くコンサートプロモーター。
- ホットスタッフコーポレーション - 自動車アフターパーツメーカー。「シュティッヒ」ブランド等アルミホイールの販売を手がける。
- Hot Stuff - 東京ミートレアに出店していたスペアリブ店。現More Stuffとして愛知県豊橋市で営業中。
hot staff
脚注
注釈
出典
- ^ 公式サイト 株式会社ホットスタッフ(HOT STAFF)
ホット・スタッフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:45 UTC 版)
「エディ・ギルバート」の記事における「ホット・スタッフ」の解説
CWAでのヒールターンは彼のマイクパフォーマンスの才能を開花させ、1985年下期からはホット・スタッフ(Hot Stuff)をニックネームに、ビル・ワットのMSWAにプレイング・マネージャーとして移籍。1986年に同団体がUWFと改称してからは若手ヒール時代のスティングとリック・スタイナーを配下に、ハリウッド・ジョン・テータムとジャック・ビクトリーのマネージャーだったミッシー・ハイアット(英語版)と共闘して、H&Hインターナショナル(Hot Stuff & Hyatt International)なるユニットを結成した。 1987年にワットがNWAのジム・クロケット・ジュニアにUWFを売却した後は一時アラバマ地区に転出したが、1988年よりWCWへの移行期にあった末期のジム・クロケット・プロモーションズに移籍。ベビーフェイスのポジションに回り、リッキー・スティムボートのNWA復帰のパートナーとなってリック・フレアー&バリー・ウインダムと抗争した。UWF時代の盟友リック・スタイナーとも再合体して、1989年2月28日にバーシティ・クラブのスティーブ・ウィリアムス&ケビン・サリバンからUSタッグ王座を奪取している。また、WCWではフレアーやサリバン、ジム・コルネットらと共にブッキング・コミッティの一員となり、フレアー&スティング対テリー・ファンク&グレート・ムタの抗争アングルなどを手掛けた。 1990年、ジム・ハード副社長による新体制への以降に伴いWCWを脱退してメンフィスに戻り、CWAの後継団体であるUSWAに登場。再びヒールターンしてローラーとの統一世界ヘビー級王座を巡る抗争劇を展開した。1991年9月には、当時USWAと接点のあったW★INGプロモーションにトム・プリチャードと共に参戦、久々の来日を果たしている。 その後はテキサス州ダラスのGWFを経て、1993年は初期のECW(イースタン・チャンピオンシップ・レスリング)でヘッド・ブッカーを担当した。選手としても、ダーク・パトリオットこと実弟ダグ・ギルバート(英語版)と組んでECWタッグ王座を獲得したが、ポール・ヘイマンのプロデューサー就任により同年秋にチャンピオンのままECWを離脱している。 ECW脱退後の1993年11月、ゴムマスクを被って覆面レスラーのブギーマンに変身し、W★INGプロモーションの『モースト・デンジャラス・タッグ・ウォーズ』にレザーフェイス(リック・パターソン)のパートナーとして出場。当時、W★INGでは弟のダグがフレディ・クルーガーに扮して活躍しており、両者はリーグ戦で対戦したが、13秒で試合を終わらせた後、それぞれマスクを脱ぎ捨て自分たちの素顔を曝して兄弟であることを明かし、マイクで同団体への批判を公言した上で全日本プロレスへの移籍を表明するという前代未聞の事件を起こした。ギャランティやマッチメークへの不満など行動におよんだ原因には諸説あるが、彼はアメリカでも各団体でトラブルを起こしており、全日本移籍も結局は実現しなかった。 1994年からはUSWAに復帰して、ローラーとの抗争を再開。コルネットが運営していたケンタッキー州ルイビルのSMWやプエルトリコのWWCなどにもブッカーとして関わった。 1995年2月18日、プエルトリコで心臓発作により死去。33歳没。彼は1983年に交通事故に遭って以来ペインキラーを常用しており、それが心臓に負担を与えていたとされている。同年、ジャッキー・ファーゴ、ジョー・ルダック、フィル・ヒッカーソンらと共に、"Memphis Wrestling Hall of Fame" に迎えられた。1996年にはニュージャージーにてトリビュート・イベントが開催され、トミー&ダグ・ギルバート、ローラー、リッチ、アル・スノー、キングコング・バンディ、マーティ・ジャネッティ、ダン・スバーン、2コールド・スコーピオ、シッド・ビシャス、ジョージ・スティール、ドリー・ファンク・ジュニアなどが参加した。 なお、UWFでH&Hインターナショナルを結成していたハイアットとはNWA(WCW)移籍後の1988年に結婚したが、後に離婚している。1991年にはデブラ・ミセリーと再婚するも、こちらも約4カ月間で破局を迎えた。
※この「ホット・スタッフ」の解説は、「エディ・ギルバート」の解説の一部です。
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