ペルシアによるバビロニア征服とは? わかりやすく解説

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ペルシアによるバビロニア征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 20:00 UTC 版)

ナボニドゥス」の記事における「ペルシアによるバビロニア征服」の解説

バビロニア陥落については異な記述残っている。キュロスの円筒碑文によればバビロン住民キュロスのために門を開き解放者として歓迎した、としている。イザヤ書40章〜第55章では、ペルシア軍がバビロニア女性たち神像略奪するであろう預言している。ヘロドトスキュロスバビロニア人を街の外打ち負かしその後包囲戦始まったとしている。包囲戦が長引くと、キュロスユーフラテス川迂回させ、部隊河床から街の中へ侵入できるようにした(以上、ヘロドトスによる)。クセノフォン同様の見方をしているが、彼は戦いには言及していない。ベロッソス紀元前3世紀著述家)は、キュロスバビロニア軍を打ち破ったのだが、このとき、ナボニドゥス近くボルシッパ逃れたであろう主張している。ナボニドゥスはそこに隠れその間キュロスバビロン占領し、その外壁破壊したキュロスボルシッパに向かうと、ナボニドゥスはすぐに投降した。これらの記述例えキュロスの円筒碑文イザヤ書後者についてはCyrus in the Judeo-Christian tradition参照)、伝承ヘロドトスクセノフォン)、記録ベロッソス)は互いに矛盾するため、非常に混乱させられるナボニドゥス年代誌はもっと有益である。ナボニドゥス年代誌バビロニア年代誌一部であり、歴史的出来事正確に事実基づいて記述している。そのため、情報量限られるが非常に信頼できる考えられている。キュロスによるバビロン占領に関しては、この文書は以下のように記している: タシュリトウの月にキュロスティグリス川沿いのオピスにいるアッカド軍を攻撃したアッカド住民蜂起したが[キュロスナボニドゥス?]が混乱した住民虐殺した15日現代の暦の10月12日に相当)、シッパル戦わずして占領された。ナボニドゥス逃げた16日、グティウムの総督ゴブリュアス(英語版)とキュロスの軍が、戦わずしてバビロン入城した。後に、ナボニドゥスバビロン戻ってきたところを捕らえられた。その月の終わりまで、盾を持ったグティ人エサギラ中に滞在したが、エサギラとその建物の中では誰も武器携行しなかった。時機逸せずして祝典開かれた。アラハサムナの月の3日現代の暦の10月29日に相当)、緑の小枝敷きつめられた中を進みキュロスバビロン入城した。平和が街に訪れたキュロス全てのバビロニア市民挨拶した総督ゴブリュアスは、副総督バビロン置いた。 - バビロニア年代誌ナボニドゥス治世17年より 補足すると、占領のすぐ後になされたバビロンエンリル門の修復について言及する建物碑文発見されている。この情報に基づき、以下の仮説提案されている。:キュロスメソポタミア南部への進軍試みたとき、オピス付近バビロニア軍に遭遇している。それに続く戦闘で、ペルシア軍は彼らに勝利した続いて付近の都市シッパル投降した一方でキュロスそれ以上進軍阻止するため、バビロニア軍はユーフラテス川付近に防衛線を築こうとして南へ撤退したしかしながらキュロスバビロニア軍に戦いを挑まなかった。むしろ、首都急襲試みるため、彼は小規模な軍隊ティグリス川沿いに南へ送った。このアイディアうまくいった。ペルシア軍の部隊は、気付かれることなくバビロン到達した。門の付近小さな抵抗遭っただけであったこのようにして彼らはバビロン占領しただけでなく、ナボニドゥス捕らえた。これによりバビロニア軍は基盤失った状態に置かれ、まもなく投降した一方バビロン占領したペルシア軍の指揮官ウグバルは、配下兵士略奪または都市害する行為をしないよう、よく気を配った。彼はバビロン神殿儀式が行われ続けるよう、計らうことさえした。それにもかかわらずキュロス入城するまで約1か月要したバビロニア官僚や行組織政権移行後も残ったので、この期間は都市代表との交渉費やされたものと推測されている。これは、新アッシリアサルゴン2世アレキサンダー大王バビロン占領したときの状況とよく似ている。なお、従前日本語記事では、アケメネス朝との戦いについて、以下のように説明している : アケメネス朝との戦いのうち最初の記録紀元前548年キュロス2世アルベラ地方侵攻した事によって発生したその後長期渡って戦い続いたが、紀元前539年9月アケメネス朝侵攻を受けオピスでのオピスの戦いナボニドゥス敗北した。更に10月シッパル陥落するナボニドゥスバビロン逃れたが、配下であったウグバルの裏切り(異説あり)によって捕らえられたため、バビロンペルシア軍に無血占領れ新バビロニア滅亡した

※この「ペルシアによるバビロニア征服」の解説は、「ナボニドゥス」の解説の一部です。
「ペルシアによるバビロニア征服」を含む「ナボニドゥス」の記事については、「ナボニドゥス」の概要を参照ください。

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