ペルシアによる再度の支配とは? わかりやすく解説

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ペルシアによる再度の支配

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)

アルメニアの歴史」の記事における「ペルシアによる再度の支配」の解説

詳細は「マルズパン・アルメニア(英語版)」を参照 ティリダテス亡きあとのアルメニア混乱し363年にはローマペルシア遠征ロシア語版)が失敗したことにより、アルメニアは完全にサーサーン朝勢力圏となった。そして387年ローマサーサーン朝との間に結ばれたアキリセネの和約ロシア語版)により、アルメニア両国分割されることとなった領域東部大半サーサーン朝のものとされ、マルズバーン地方太守)の支配受けた西部わずかな領域ローマからの長官統治されることとなり、2つ地域分けられ王位はいずれ名目的な存在にすぎなくなったローマ側アルサケス3世英語版)を最後に後継者擁立せず、389年ローマアルメニア滅びた。さらに、ペルシア側のアルメニア諸侯王位廃止サーサーン朝に対して願い出たため、428年にはペルシア側のアルサケス朝消滅した。 こうしてアルメニア統治権は完全にサーサーン朝へと移ったが、その統治は必ずしも盤石なものではなかった。とりわけサーサーン朝がとったゾロアスター教への強制改宗政策は、アルメニア人に強い反ペルシア感情抱かせることとなった。その民族意識451年のマミコニアン家(フランス語版)の反乱として噴出し当主ヴァルダン・マミコニアン(英語版)は、66,000の兵を率いて22ペルシア兵と戦ったアルメニア人戦い敗れ、ヴァルダンをはじめ多く将軍戦死した。しかし、その後サーサーン朝アルメニア譲歩しアルメニアサーサーン朝軍事支援を行う代わりとして、大幅な政治的宗教的自治獲得した。 この混乱の時代にも、アルメニア人はさらに文化独自性発展させた。そのひとつは、404年ないし406年メスロプ・マシュトツによって行われたアルメニア文字発明である。宣教師としてアルメニア各地見聞したマシュトツは、布教民族統一目的として、ギリシア文字参考に独自の文字発明した。独自の書き言葉成立は、アルメニア人民族意識確立大きな役割果たしたもうひとつ変化は、451年、マミコニアン家の反乱最中小アジア開催されカルケドン公会議である。この公会議では、世界各地見解分かれていたキリスト教教義について、両性説以外を異端として排斥することで統一図られた。当時戦い渦中にあったアルメニアはこの公会議参加できず、知らぬ間に自身たちの奉じる合性論異端とされたことに反発した非主流となったアルメニアネストリウス派との共闘拒否し、「アルメニア使徒教会」として独自の信仰発展させていくこととなる。

※この「ペルシアによる再度の支配」の解説は、「アルメニアの歴史」の解説の一部です。
「ペルシアによる再度の支配」を含む「アルメニアの歴史」の記事については、「アルメニアの歴史」の概要を参照ください。

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