ペルシアによる再度の支配
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「アルメニアの歴史」の記事における「ペルシアによる再度の支配」の解説
詳細は「マルズパン・アルメニア(英語版)」を参照 ティリダテス亡きあとのアルメニアは混乱し、363年にはローマのペルシア遠征(ロシア語版)が失敗したことにより、アルメニアは完全にサーサーン朝の勢力圏となった。そして387年、ローマとサーサーン朝との間に結ばれたアキリセネの和約(ロシア語版)により、アルメニアは両国に分割されることとなった。領域東部の大半はサーサーン朝のものとされ、マルズバーン(地方太守)の支配を受けた。西部のわずかな領域はローマからの長官に統治されることとなり、2つの地域に分けられた王位はいずれも名目的な存在にすぎなくなった。ローマ側はアルサケス3世(英語版)を最後に後継者を擁立せず、389年にローマ領アルメニアは滅びた。さらに、ペルシア側のアルメニア諸侯も王位の廃止をサーサーン朝に対して願い出たため、428年にはペルシア側のアルサケス朝も消滅した。 こうしてアルメニアの統治権は完全にサーサーン朝へと移ったが、その統治は必ずしも盤石なものではなかった。とりわけ、サーサーン朝がとったゾロアスター教への強制改宗政策は、アルメニア人に強い反ペルシア感情を抱かせることとなった。その民族意識は451年のマミコニアン家(フランス語版)の反乱として噴出し、当主ヴァルダン・マミコニアン(英語版)は、6万6,000の兵を率いて22万のペルシア兵と戦った。アルメニア人は戦いに敗れ、ヴァルダンをはじめ多くの将軍が戦死した。しかし、その後サーサーン朝はアルメニアに譲歩し、アルメニアはサーサーン朝に軍事支援を行う代わりとして、大幅な政治的・宗教的自治を獲得した。 この混乱の時代にも、アルメニア人はさらに文化の独自性を発展させた。そのひとつは、404年ないし406年にメスロプ・マシュトツによって行われた、アルメニア文字の発明である。宣教師としてアルメニア各地を見聞したマシュトツは、布教と民族統一を目的として、ギリシア文字を参考に独自の文字を発明した。独自の書き言葉の成立は、アルメニア人の民族意識の確立に大きな役割を果たした。 もうひとつの変化は、451年、マミコニアン家の反乱の最中に小アジアで開催されたカルケドン公会議である。この公会議では、世界各地で見解の分かれていたキリスト教の教義について、両性説以外を異端として排斥することで統一が図られた。当時戦いの渦中にあったアルメニアはこの公会議に参加できず、知らぬ間に自身たちの奉じる合性論が異端とされたことに反発した。非主流派となったアルメニアはネストリウス派との共闘も拒否し、「アルメニア使徒教会」として独自の信仰を発展させていくこととなる。
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