ペルシアとマケドニアによる支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
「アルメニアの歴史」の記事における「ペルシアとマケドニアによる支配」の解説
詳細は「アルメニア州 (アケメネス朝)(英語版)」および「オロンテス朝(アルメニア語版)」を参照 ウラルトゥの滅亡後、アルメニア一帯はメディア王国に編入されていたが、紀元前550年ごろには次いでアケメネス朝に併合された。このころ、アルメニアはサトラップ制のもと、ゾロアスター教などペルシア文化(英語版)の強い影響を受けた。アケメネス朝の支配は半農奴的なものであったが、アルメニア人は小アジアや地中海までの交易の担い手となって繁栄した。また、住民の大多数は畜産と葡萄栽培を営んでおり、豊かな暮らしを送っていた。アルメニアのサトラップ(州総督)に任ぜられていたのは、王家の流れを汲むペルシア系のオロンテス家であった。そして、世襲により代を重ねたこのサトラップは、中央政権の干渉も少なくなるアケメネス朝後期になると、やがてそれ自体が独立した王朝として振る舞うようになった。しかしこの異民族の支配にあっても、交易で栄えるアルメニアには平穏で豊かな社会が築かれていた。 しかし、紀元前331年にマケドニア王国の軍勢がペルシアへ侵入すると、アルメニアでの平穏も破られた。ガウガメラの戦いにはアルメニアからも4万の歩兵と7,000の騎兵が馳せ参じたが、結局はアケメネス朝が大敗を喫し、オロンテス朝のオロンテス2世(フランス語版)も戦死した。マケドニアのアレクサンドロス大王はその後継者として、オロンテスの子であり自国側に寝返っていたミトレネスを任じた。これ以降、ウラルトゥの生活様式を維持する農耕地域であったアルメニアは、ギリシア文化(英語版)の浸透により急速に都市化が進行する。金融や裁判などの制度が取り入れられ、商人と職人が力を増す一方で、従来の家父長制は衰退していった。そして紀元前3世紀ごろから、アルメニアは絶対君主制の社会へと変化していった。 紀元前323年にアレクサンドロス大王が死去すると、メソポタミアはセレウコスに受け継がれたが、オロンテス朝はこのセレウコス朝においても、名目的に従属しながら実質的な独立を維持した。オロンテス朝の支配は、北西はセヴァン湖、南はムサシル(ポーランド語版)、西はソフェーネ(フランス語版)まで及び、アルマヴィル(アルメニア語版)に替わって新たな首都がイェルヴァンダシャト(ロシア語版)に築かれた。ヘレニズムの影響によりアルメニアの公用語はアラム語からギリシア語へと切り替わり、ギリシア建築の神殿なども建てられたが、なおアルメニアでは土着の文化やペルシア文化が優勢であった。
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