ペルシアによる三度目の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
「アルメニアの歴史」の記事における「ペルシアによる三度目の支配」の解説
詳細は「サファヴィー朝アルメニア(アルメニア語版)」および「ペルシアのアルメニア人の歴史(ペルシア語版)」を参照 さまざまな支配者が入れ替わったカフカース側のアルメニア(いわゆる東アルメニア(ロシア語版))であったが、1502年に白羊朝がサファヴィー朝に倒されたため、三度目のペルシア支配を受けることとなった。 1603年からの第四次オスマン・ペルシア戦争(英語版)の際には、シャー・アッバース1世がヴァン、バヤズィト(ロシア語版)、ナヒチェヴァンに対して焦土作戦を敢行し、その後2年にわたって25万人から30万人のアルメニア人がエスファハーンへと強制移住させられた。この強制移住は数千人の犠牲者を出したが、一方で移住先には新たにジョルファー(英語版)の町が築かれ、絹取引の独占権を与えられたアルメニア人は、ジョルファーをヨーロッパと結ぶ交易都市へと発展させた。ジョルファーの商人は中東や西欧にとどまらず、スウェーデン、モスクワからインド、フィリピン、インドネシア、中国まで商社を設けた。 しかし、アッバースの死後はアルメニア人に対するサファヴィー朝の寛容さもなくなり、またイギリス・オランダ東インド会社などの台頭により、アルメニア人商人の勢力も18世紀には弱まった。アルメニア人は希望をキリスト教世界へ向けるようになり、エチミアジンのカトリコス(キリキア聖座(英語版)とは別に新設された)は幾度も使節団をヨーロッパへと派遣した。とりわけ1678年にローマへ発った19歳のカラバフ(ロシア語版)貴族、イスラエル・オリ(ロシア語版)は、ヨーロッパ中を渡り歩いてパラティナ選帝侯やオーストリア皇帝、そしてロシア皇帝にまで面会し、アルメニア解放への支援を訴えた。しかし、何ら実のある返答も得られないまま、オリは土地貴族による暗殺という最期を遂げた。また、サファヴィー朝の滅亡に乗じたオスマン帝国がまたも対ペルシア戦争(英語版)を起こした際には、ダヴィド・ベク(フランス語版)をはじめとするわずかな諸侯がナゴルノ・カラバフへ立てこもり、1722年から8年間のみ、両軍を退けてアルメニア人による独立状態を維持した。
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