ペルシアにおける教会組織の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 00:07 UTC 版)
「ヤズデギルド1世」の記事における「ペルシアにおける教会組織の確立」の解説
ヤズデギルド1世の治世は、ペルシアのキリスト教徒にとっては転機となる時代であった。東ローマ帝国の主教であるマルタ(英語版)の助言を得て、ヤズデギルド1世は410年に東方教会を公認した。これをきっかけとしてペルシア教会が確立され、424年にはローマ帝国内の教会からの独立を宣言した。このヤズデギルド1世の布告は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:306年 - 337年)によって313年に公布されたミラノ勅令のサーサーン朝版と呼ばれている。程なくしてペルシアの官僚組織による監督下で教会や殉教者の聖廟、さらには修道院が設立された。これらの施設はサーサーン朝の首都クテシフォンの宮廷の近くに存在し、ヤズデギルド1世(東方のシリア人もしくはローマ人の外交官を主な後援者として教会に資金を提供していた)の承認を得ていた。また、ゾロアスター教徒が土地を汚すと考えていたキリスト教徒による死者の埋葬を許可したのもヤズデギルド1世の寛容さを示す行為の一つであった。 官僚の中にもキリスト教徒のエリート層が増加し、その傾向は651年の帝国の崩壊まで続いた。シメオン・バル・サバエ(英語版)を始めとする聖職者たちはシャープール2世による帝国の官僚機構への参加要請に対して強く抵抗していたが、5世紀の間に主教たちは(ゾロアスター教からは独立した)ペルシアにおける仲介者として活動するようになった。ヤズデギルド1世は指導的立場にある聖職者たちを活用し、クテシフォンのカトリコス総主教を自分とペルシア南部のファールスの総督を務めていた兄弟の間の仲裁者として派遣した。また、別の総主教はテオドシウス2世へのヤズデギルド1世の大使を務めた。ヤズデギルド1世はキリスト教についてあまり知識を持っていなかったと思われ、(シャープール2世のように)帝国の政治的、経済的能力を高めることにより目的と関心があったとみられている。キリスト教徒に対する寛容な扱いのために、ヤズデギルド1世はキリスト教徒の年代記において「高貴な魂」と表現され、第二のキュロス大王(ペルシアのアケメネス朝の創始者、在位:前550年 - 前530年)と呼ばれた。
※この「ペルシアにおける教会組織の確立」の解説は、「ヤズデギルド1世」の解説の一部です。
「ペルシアにおける教会組織の確立」を含む「ヤズデギルド1世」の記事については、「ヤズデギルド1世」の概要を参照ください。
- ペルシアにおける教会組織の確立のページへのリンク