ペルシアおよびアラブによる征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 06:16 UTC 版)
「アエギュプトゥス」の記事における「ペルシアおよびアラブによる征服」の解説
7世紀に、東ローマ帝国とサーサーン朝(ペルシア)との間で争いが起こり、その結果のひとつとして、618年または619年からアエギュプトゥスはペルシアに占領されるようになる。争いのきっかけは東ローマ皇帝マウリキウス(582年-602年)が内乱で殺されたことで、マウキリウス帝と和睦を結んでいたペルシア皇帝ホスロー2世パルウィーズは、その報復として進軍を開始した。ホスロー2世は当初は勝ち続け、614年にエルサレムを征服し、619年にアレクサンドリアを征服した。しかし、皇帝ヘラクレイオス(610年-641年)が率いる東ローマ軍が622年に反撃を開始すると戦況は逆転し、628年2月25日にホスロー2世が死去して終戦を迎えた(Frye, pp. 167-70)。ホスロー2世の息子カワード2世はエジプトを含むペルシア軍の占領地を9月に東ローマ帝国に返還した。 ペルシアが支配している間に、アエギュプトゥスでは隠れていた単性論者が再び公然と現れた。しかし再び東ローマ帝国の支配下に入ったため、表面化した単性論者達は迫害され、彼らの長は追放された。このようにアエギュプトゥスが宗教的にも政治的にも東ローマ帝国から遊離しているときに、新たにイスラム帝国が侵攻してきた。 預言者ムハンマドの政治的後継者である第2代正統カリフのウマルは、新宗教のイスラム教を西側に広めるために、将軍アムル・イブン・アル=アースと4,000名のアラブ人からなる軍を派兵した。イスラム軍は639年にパレスチナからアエギュプトゥスに侵入し、すぐにナイル川の三角地帯まで達した。ローマ側の皇帝駐留軍は町の城壁内に撤退し、そのまま1年間(またはそれ以上)持ちこたえたが、増援を受けたイスラム軍が641年4月にアレクサンドリアを陥した。 アエギュプトゥスの人々は東ローマ帝国の教会から迫害を受けていたため、多くの住民が新しい支配者に代わることを歓迎した。東ローマ帝国はアエギュプトゥスを奪還するために艦隊を組織し、645年にはアレクサンドリアを取り戻したが、646年には再びイスラム軍に奪われた。これによってアエギュプトゥスはイスラム支配下に入り、ギリシア・ローマによる975年間にわたったエジプト支配は終わりを告げた。
※この「ペルシアおよびアラブによる征服」の解説は、「アエギュプトゥス」の解説の一部です。
「ペルシアおよびアラブによる征服」を含む「アエギュプトゥス」の記事については、「アエギュプトゥス」の概要を参照ください。
- ペルシアおよびアラブによる征服のページへのリンク