ベルリン条約と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:03 UTC 版)
「ルーマニアのユダヤ人の歴史」の記事における「ベルリン条約と戦後」の解説
ブラティアヌが主導権を取り戻すと、ルーマニアはバルカン半島で急に持ち上がった対立と直面した。ルーマニアは、1877年の露土戦争でロシア側について自国軍を急いで派遣することで、ヨーロッパ列強に恩を売って支持を得ることは、宗主国であるオスマン帝国のくびきから独立する機会だと知った。戦争はベルリン条約で終結し、条約第44条ではルーマニアに住む非キリスト教徒(ユダヤ人だけでなく、新たに獲得した北ドブロジャに住むイスラム教徒も含む)は完全な市民権を獲得すべきと示した。国内の長引いた議論と国外の外交交渉の後、ルーマニア政府は完全に承諾(1879年)し、ルーマニア憲法第7条を廃止した。しかし、これは非常に困難な手続きをすることを改めて明確にしたのだった。『外国保護下にない外国人の帰化は、どれも個々の事例でなされるべきで、ルーマニア政府が決めるべきことだ。』(帰化希望者に許可が与えられる以前の10年間は、ルーマニア国籍を得ようとする外国人の間で帰化を表明する行動が必要とされた)。思わせぶりな外交辞令は屈従を表すことによって倍増した。戦争に参加した883人のユダヤ人たちは、両院の投票によって一団となって帰化した。 1880年、57人が個人として意思表示をし帰化した。1881年には2人、1882年には2人、1883年には2人、1886年から1900年の間には18人いた。21年の間に帰化したユダヤ人は85人で、1900年までの間に21人が死んだ。1912年には、4000人ほどが市民権を獲得した。事実上、全ての職業での出世への要求が、ルーマニア人のみに与えられた政治的権利の保持に依存するようになるまで、多種多様な法律が採択された。40%以上のユダヤ人労働者が単純労働に従事し、法律によって不正規雇用を強いられていた。同じような法律が、職業の自由選択の行使を求めるユダヤ人へ対して承認された。 1893年、法律の一つが、ユダヤ人の子供が公立学校で学ぶ権利を奪った。ユダヤ人の子供たちはルーマニア国民である場合だけ教育を受けるのを許され、その両親は差別的な授業料の支払いを要求された。1898年、ユダヤ人を中等教育学校と大学から閉めだす法律が通過した。その他の有名な法令は、不法滞在するユダヤ人活動家、モセス・ガステル(Moses Gaster)、エリアス・シュヴァルツフェルト(Elias Schwarzfeld)の排除を明記したものである(1881年の法律の条項) 。 裁判所はさらに不快な内容のユダヤ宣誓(Oath More Judaico、かつてヨーロッパ諸国の法廷でユダヤ人に強いられた屈辱的な宣誓)を強いた。これは1904年に、フランスのマスコミに報道されたことで批判を浴び、廃止されただけだった。1892年、アメリカ合衆国がベルリン条約の調印国へ宛てて通知を出し、それがルーマニアのマスコミによって攻撃された。ラスカル・カタルジュ政権はしかし、心配した。問題は大臣たちの間で議論された。そして結果として、ルーマニア政府はフランス語でパンフレットを作成し、その中でユダヤ人に対する糾弾を繰り返した。人口の少ない田舎で、田舎の共同体に属するユダヤ人が、地元の富を搾取している疑いがあり、代わりに相応の報いを受けるべきという迫害の理由を支持したのである。
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