ベルリン時代初期 1897-1901
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「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「ベルリン時代初期 1897-1901」の解説
1897年(36歳)、ベルリンへ転居。22歳から手がけたゲーテの自然科学論文の校訂作業が完了し、『ゲーテの自然科学論文集』が出版される。 7月、ゲーテ研究の集大成とも言える『ゲーテの世界観』 (GA6) を出版。その本の最終章はゲーテとヘーゲルの関係について述べている。 同月、オットー・エーリッヒ・ハルトレーベンと共に『文芸雑誌』 Magazins für Literatur(そこでの記事はGA29-32に収録)を創刊。「自由文芸協会」、「自由演劇協会」と「ジョルダーノ・ブルーノ同盟」その他で活動。シオニズムに対して強い拒絶を示す。 1898年(37歳)、自身の編集による『演劇雑誌』を創刊、しかし翌年末には廃刊。 1899年(38歳)、1月13日からヴィルヘルム・リープクネヒト(1826年-1900年)によって設立された労働者教養学校 Arbeiter-Bildungsschule で授業(歴史、話術、文章表現など)を始め、この仕事は1904年まで続く。この学校はやや社会主義的な色彩を持った教育施設であった。10月31日、未亡人であるアンナ・オイニケ(1853年-1911年)と結婚し、フリーデナウ、カイザー通り95番に転居。 1900年(39歳)、ドイツの作家ルートヴィヒ・ヤコボフスキー(1868年-1900年)によって設立された「来るべき者たち」と交流。9月末、『文芸雑誌』の仕事を辞める。 初秋に、ブロックドルフ伯爵夫妻(カイ 1844年-1921年、ゾフィー 1848年-1906年)にベルリンの「神智学文庫」での講演を依頼され、9月22日はニーチェについて、同月29日にはゲーテについての講義を行う。 10月6日より神秘主義に関する連続講義を開始、この内容は翌年自身の手によって纏められ、出版される (GA7)。これ以降、シュタイナーは、講演活動を活発に行うようになる。
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