ベルリン日独協会
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「フリードリヒ・ハック」の記事における「ベルリン日独協会」の解説
1934年、ベルリン日独協会の会員であったハックは、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉のために訪欧中の山本五十六とドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー、軍縮問題全権ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの会談をセットした。 1935年、駐独大使館付陸軍武官の大島浩と会談、大島とのリッベントロップとの会談を成立させた。また、同年10月には大島、国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクと共にフライブルクでの日本との軍事協力に関する会合に参加し、11月15日のリッベントロップ邸での会談にも参加した。出席者はリッベントロップ、大島、カナリス、ナチ党外交部のヘルマン・フォン・ラウマー (Hermann von Raumer) らであった。 1936年2月8日に宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスに後援された日独合作映画『新しき土』の撮影チームとともに来日した。この際、彼はリヒャルト・ゾルゲがソ連軍スパイであるとも知らずに日独軍事協定締結交渉のために来日したことを暴露した。1936年11月25日、ハックらの努力が実を結び日独防共協定が締結される。 1937年2月、リッベントロップ、カナリス、ラウマー、オイゲン・オットらと共に大島から勲章(勲四等旭日小綬章)が手渡された。ハックの肩書きは「日独協会理事」であり、中佐相当とされていた。
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