ベトナム社会主義共和国におけるムスリム
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「ベトナムのイスラム教」の記事における「ベトナム社会主義共和国におけるムスリム」の解説
1975年に民主カンボジアが成立し、南北ベトナムが統一され、1976年にベトナム社会主義共和国が成立すると、社会主義政権による宗教弾圧から逃れるため、カンボジア・ベトナムから約55,000人のチャムがマレーシアなどにに避難した。また1,750人のチャムがイエメンに移住し、移民として受け入れられ、ほとんどがタイズに居を移した。ベトナムにおいてもモスクが政府により閉鎖されたと主張する著述家がおり、それが疑われる遺構もある(フエの印僑モスクやバリアのフオクティエン・モスクなど)。1975年の革命直後、ベトナムにおいても、カンボジアほどではないにせよ、地方政府・党支部とチャムの諸宗教とくにイスラーム(シャーフィイー)の対立が深刻になり、中央政府・党としてシャーフィイーとの対立解消に努めたことが、ベトナム共産党の「チャム同胞に対する工作に関する指示」(1983)に看守される。1980~1981年ごろから、ベトナムに残った者も、公安から暴力的な迫害を受けることはなくなった。一方、民主カンボジア・ポルポト政権の崩壊後も続いた社会不安から逃れるため、1978年~1989年にかけて、のべ数千人のカンボジア・チャム難民がベトナム南部の東南地方、ドンナイ省に移住しした。国家の制約はあるものの、ベトナムは建前としては憲法において信教の自由を保証していた。 1981年ごろには、すでに、ベトナムへ入国した外国人観光客が地元のムスリムに話し掛けたり、彼らのそばで礼拝することを公安が警戒しなくなっていた。ある1985年の報告では、ホーチミンシティーのムスリム共同体には民族的多様性があると記録されている。チャムのほか、亡命や海難(漂流)で渡越したジャワ人、スンダ人やバリ人(インドネシア人)、ビジネスのため渡越したマレーシア人や印僑(含むパキスタン人)、アラブ人(イエメン人、北アフリカ人)がおり、その総数は当時すでに約10,000人に上っていた。 歴史的経緯から、1693年以降、ベトナムのムスリム、なかんづく中部のバニーと呼ばれるチャム系ムスリムは世界のイスラム教主流派から比較的隔絶していた。この隔絶と、イスラム教の宗教学校がなかったことにより、バニーにおけるイスラム教の宗教活動は習合性が進んだと誤解されている。実際には、バニーは祖先崇拝を尊重するが、ヒンズーやバラモンの神々を祀ることはなく、初期イスラム伝道者らを神格化した聖者崇拝がみられるだけである。また、バチャムにおいてもシヴァなどのヒンズーの神格を祀る祭祀文献は存在せず、その神格は王家の祖先神である。バニーにおいてもアラビア語の学習と使用は過去から現在まで一貫して奨励されてきたが、1693年から1990年代まで、約300年にわたる隔絶により、バニーにおいてはアラビア語の聖句の誤用や誤読が極めて多くなった。バニーはアリー・イブン・アビー・ターリブを極めて重視する。アリーを「神の子」と呼ぶ者もいるとの報告がある。ディマシュキーの『コスモグラフィー』(1325-1327ごろ)にもアッ・サンフ(チャンパ)におけるアリーユーン派(初期シーア派)の亡命伝承がある。しかし、バニーが使用するキターブ群は基本的にシャーフィイーと同じものであり、彼らのイスラムをシーア派と判断する根拠はない。 国内最大のモスクが2006年1月、一部サウジアラビアからの寄付を得てカンボジア・チャム難民が定住したドンナイ省スアンロック県に完成した。
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